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  • #14 World Philosophy③ 仏教

    前回は、ウパニシャッド哲学、すなわち現代インドの諸宗教が生まれる前夜について説明した。今回は仏教を紹介する。

    特に、仏教がウパニシャッド哲学の基本理念をどう捉え、それをいかに実践に移していったかを見ていきたい。

    まず確認しておきたいのは、仏教をはじめ、ウパニシャッド哲学を起源とする宗教では、輪廻転生からの解脱が必要であり、そのためには修行が不可欠と考えられているという点である。

    仏教では、輪廻は「六道」と呼ばれる六つの世界「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」を巡るものとされる。この六つの世界での生死を断ち切るため(解脱するため)に修行が求められるのだ。

    仏教において、輪廻は好ましくないものとして捉えられる。それは、輪廻の中で「四苦八苦」を経験せねばならないからである。仏教の開祖・釈迦の「四門出遊」のエピソードをご存知だろうか。

    あるとき、釈迦は東門から外に出た。そこで老人を見て、「人は皆老いる」と気づいた。次に南門から出ると病人を見て、「人は病にかかる」と知った。さらに西門から出ると死人を見て、「人は死ぬ」と悟った。最後に北門から出たとき、修行僧(沙門)に出会い、老・病・死の苦しみから逃れる道があるのではないかと考えた。

    このエピソードに見られるように、「四苦」とは、生・老・病・死の四つの苦しみである。これに加え、愛する者と別れる「愛別離苦」、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、求めても得られぬ「求不得苦」、心と身体を思い通りにできぬ「五蘊盛苦」を加えて「四苦八苦」と呼ぶ。

    人は生きている限り、この苦しみからは逃れられない。

    紀元前7世紀、ウパニシャッド哲学(特に「梵我一如」の先駆者)の中心人物ヤージュニャヴァルキヤはこう説いた。
    「輪廻の原動力は、善(功徳)であれ悪(罪障)であれ、行為(業=カルマン)である。そして、そのカルマンを生み出すのは、欲求とその裏返しである嫌悪によって成る“欲望”である」。

    言い換えれば、欲望を滅すれば、カルマンは消え、輪廻から脱することができるということだ。

    釈迦はさらに深く考えた。欲望の根源には「生きたい」という根本的な欲求(渇愛)、そして無知(無明)や愚かさ(癡)があると見抜いた。輪廻を断ち切るには、この「生きたい」という根本的な欲求を克服せねばならない。

    そこで釈迦は、この世界と、そこに生じる現象が、どのような因果関係(縁起)によって成り立っているのかを深く探求した。

    彼は次のような法則にたどり着いた。

    「これがあれば、かれ(それ)が成り立ち、これが生じれば、かれも生じる。これがなければ、かれは成り立たず、これが滅すれば、かれも滅する」。

    このように、原因と結果の関係を検証することで、因果関係の真偽を見極めることができる。仏教では、この因果性の法則を「此縁性(しえんしょう)」と呼ぶ。

    視点を西洋に転じてみよう。この「此縁性」、すなわち「因果性」の考えは、19世紀の近代においてようやく理論的に体系化された。功利主義や自由主義で知られる政治思想家、ジョン・スチュアート・ミル(J. S. Mill)は、「蓋然推理」として、同様の因果性の検証方法を提示している。紀元前に生きた釈迦がすでにそれを体得していたとすれば、これこそが「世界哲学(ワールド・フィロソフィー)」を学ぶ醍醐味であろう。

    さて、こうした論理的な思索の中で釈迦が導いたものが「四諦(したい)」である。四諦とは、仏教における四つの真理であり、苦しみから解脱する道を説いたものだ。

    この世は苦しみに満ちている(苦諦)。
    苦しみには原因がある(集諦)。
    苦しみは終わらせることができる(滅諦)。
    そのための実践がある(道諦)。

    この「道諦」で説かれる実践こそが「八正道」である。
    八正道は次の八つの実践から成る。

    正見(しょうけん):正しい見方をすること

    正思惟(しょうしゆい):正しく考えること

    正語(しょうご):正しい言葉を使うこと

    正業(しょうぎょう):正しい行いをすること

    正命(しょうみょう):正しい生活を送ること

    正精進(しょうしょうじん):正しく努力すること

    正念(しょうねん):正しく心を保つこと

    正定(しょうじょう):正しく精神を集中させること

    ここからは私見である。
    仏教というと、どこか精神世界的なものという印象を抱いていた。しかし実際には、驚くほどの論理性と観察の緻密さをもって人間の存在を捉えている。むしろ西洋哲学に先んじていたとも言えるだろう。

    もっとも、私にはその全容を理解する力はなく、多様な見解もあることから、ここでの深入りは避けておきたい。

    【参考文献】

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。
    宮元 啓一『わかる仏教史』角川ソフィア文庫、2017年。
    渋谷 申博『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』日本文芸社、2019年。
    白取 春彦『完全版 仏教「超」入門』ディスカヴァー・トゥウェンティワン、2018年。
    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年。

    【タグ】

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  • #13 World Philosophy② 仏教前史

    World Philosophyとは、「哲学とは西洋の専売特許ではなく、人類すべてが共有する営みである」とする立場である。前回に引き続き、今回はその視点から、アジアにおける思索の途をたどってみたい。

    とりわけ、日本や中国をはじめとする東アジアの精神文化に深く影響を与えてきた仏教の歴史、いわゆる「仏教史」について考察する。

    ただし、仏教の教えや歴史は、宗派の多様性と地域的変遷によって、あまりに複雑化している。そもそも初期の形を正確に描き出すことすら難しく、また、歴史を「追う」と言っても、その解釈は常に議論と再検討の対象である。

    そこで本サイトでは、仏教について詳細な教義や宗派論に深入りすることは避け、あくまで思想の大きな流れをざっくりと掴むことを目指す。そのうえで、僕自身の視点から、いくつかの解釈を交えながら紹介したい。

    まず、今回は、仏教のもとになったといわれる「ウパニシャッド哲学」から取り扱おう。

    たとえばギリシア哲学が生まれた背景には、アテネとスパルタの戦争があり、そのなかでソクラテスやプラトンが世の中を見つめ直すことで、哲学的思索が芽生えた。前回の記事(#12)で紹介した諸子百家も、春秋戦国という争乱の時代に登場している。そして、このウパニシャッド哲学もまた、インドにおける抗争と混乱の中から生まれてきた。

    これらは共通し、「生きるとは何か」を改めて問うことで誕生したとも考えられる。

    さて、もともとインドには、自然崇拝を中心としたバラモン教が根付いていた。だがそのバラモン教は、やがて形式化・形骸化し、祭祀を行うことが目的化されていった。司祭であるバラモン(=お坊さんの意)が、ただ儀式を執り行う存在になってしまったのだ。

    そうした外面的な宗教儀礼に対する反省と批判から登場したのが、ウパニシャッド哲学である。より内面的で、心の中で考えることを重視し、バラモン教の聖典であるリグ=ヴェーダの本来の姿である宇宙の根本や普遍的な真実、いわば「世の中の真理」を探究しようとする動きであった。

    ウパニシャッドとは、もともと「近くに座ること」、すなわち「秘儀を伝えること」を意味する。祭司バラモンの師から弟子に伝えられた、口伝の奥義であり、のちに文献化されたものが「奥義書(ウパニシャッド)」と呼ばれている。成立は前500年頃までにさかのぼるとされる。

    「ウパニシャッド(奥義書)」についてもう少し説明を加えよう。

    ウパニシャッド文献は、バラモン教の聖典リグ=ヴェーダの四部構成のうち、第四部にあたる。

    その内容は、哲学的な問い「生命とは何か」「死とは何か」などに正面から取り組むものだった。

    個人の本質である魂=アートマン(我)は不滅であり、たとえ肉体が滅びても存在し続ける。このアートマンが現世の肉体に宿るとき、新しい生命がこの世に誕生する。

    そして、肉体が死を迎えると、アートマンはその身体を離れ、本来の故郷へ、すなわち、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)へと回帰する。それによって、魂は一切の苦しみから解き放たれる。これが解脱である。

    しかし、解脱を果たせなかった魂は、再びこの世に生まれ変わる。肉体を得て地上に戻ることで、また新たな「生」が始まり、「死」を迎え、このようにして永遠に生と死を繰り返す。これが輪廻転生である。

    そしてウパニシャッドの思想家たちは、この永遠の輪廻こそが魂の平安を妨げるものであり、断ち切るべき苦しみの連鎖だと考えた。

    とはいえ、輪廻と聞けば、多くの日本人にとっては、どこか神秘的で美しいイメージを持たれるかもしれない。しかし、インドにおいて輪廻とは、むしろ「苦しみの連鎖」である。

    人生とは本来的に苦しみに満ち、死とはさらに大きな苦しみである。それを何度も繰り返すことは、「望ましくないこと」なのだ。輪廻から早く抜け出す(解脱する)ことこそが、インド思想の重要な目標なのである。

    さて、インドの思想家たちは、そうした人生の苦しみの根本構造を、論理的に考え抜いた。その帰結として、「アートマン(我)とブラフマン(梵)は本質的に同一である」という宇宙の真理、いわゆる梵我一如(ぼんがいちにょ)が生まれた。

    この宇宙の真理、すなわち「梵我一如(ぼんがいちにょ)」を深く理解することができたとき、魂はすべての苦しみから解放され、解脱に至るのだ。

    ただし、その境地に達するためには、生きている間に修行を積む必要がある。この「修行のあり方」をめぐる解釈と実践の違いによって、やがてジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教など、さまざまな宗派が生まれていくことになった。

    つまり、インドにおける仏教をはじめとする諸宗教は、ウパニシャッド哲学を母体として成立しているのである。

    では、仏教の祖である釈迦は、この「修行」というものを、いかに定義したのだろうか。

    次回は、そこから話を続けることにしよう。

    【参考文献】

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。

    宮元 啓一『わかる仏教史』角川ソフィア文庫、2017年。

    渋谷 申博『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』日本文芸社、2019年。

    白取 春彦『完全版 仏教「超」入門』ディスカヴァー・トゥウェンティワン、2018年。

    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年。

    【タグ】

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  • #12 World Philosophy① ゾロアスター教・諸子百家

    昨日は、「言語と哲学」には深いつながりがあること、そしてその関係を理解するためには哲学の歴史をたどる必要があるという結論に至った。しかしながら、そこにおいて想定されていた「哲学」は、あくまで西洋的な視座に立つものであった。

    確かに、現代の学問体系の基礎に位置づけられているのは、輸入された西洋哲学であると言ってよい。だが、物事の根源に問いを立てる営みは、西洋に固有のものではない。東洋においても、中東においても、あるいはもっと小さな共同体の内部においてさえ、人々は「なぜそうなのか」と問うてきた。

    今後、西洋哲学を中心にその展開をたどる予定であるが、それに先立ち、「西洋だけが哲学を生み出した」という物語に無自覚なまま語ることがないように、今回から数回に渡り、いわゆるワールド・フィロソフィー(世界の哲学)の視点にもしばし目を向けておきたい。これは、西洋的視点の相対化という意味でもあり、また同時に、アメリカナイズされた思想的枠組みから一歩引くための試みでもある。

    とりわけ今回は、「知の探究」が人類の歴史においていかに形を取り始めたのか、その初期の顕著な事例として、古代ペルシアのゾロアスター教と、中国の諸子百家の思想を取り上げたい。

    その後、ようやく小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』を手がかりに、日本語という言語が持つ特異な構造と思考様式をたどりつつ、改めて西洋哲学の流れに目を向ける予定である。

    さて、「哲学のはじまりは古代ギリシアである」という通念は、今なお広く信じられている。しかし、それ以前に人類が「知とは何か」「いかに生きるべきか」等といった根源的な問いを抱き、それに答えを見出そうとした営みは確かに存在した。

    たとえば、古代ペルシア(現イラン)におけるゾロアスター教が挙げられる。この宗教は、神話のような断片的言語世界ではなく、善と悪の二つの対立という明確な思想体系を提示した。この二つの対立は、人間の自由な意思による倫理的選択を求めた点で、哲学的思索のはじまりと見ることができる。

    創始者ザラシュトラ(Zarathustra)の名は、西洋ではゾロアスターとして知られる。彼が説いた教えは、先に述べた二つの対立、光の神アフラ・マズダ(Ahura Mazda)と闇の神アーリマンの関係を中心とする。

    ちなみに、日本の自動車メーカー「マツダ(Mazda)」の綴りがMATSUDAではなくMAZDAであるのは、このアフラ・マズダにちなんだ命名であることが逸話として知られている。

    さて、この二つが対立するという二元論的世界観は、人間がどちらの方に加担するかを自分で選ぶ責任を強調している。さらに、この宗教は終末には「救世主の到来」と「最後の審判」があると説いた点でも、ユダヤ教・キリスト教・イスラームといった後に続く一神教に深い影響を与えた。

    ゾロアスター教は7世紀にイスラーム勢力のイラン進出によって衰退したものの、一部の信徒たちはインドへと逃れ、パールスィー教徒として現在も信仰を守り続けている。また、中央アジアのソグド人などを通じて東アジアにも伝えられ、中国の唐代では祆教(けんきょう)として一時的に広まった。

    このゾロアスター教の思想は、現代でいうところの「ペルシア哲学」へと連なっていく。ペルシア哲学は、西洋哲学や中国哲学のように明確な体系を持っているわけではないが、地域固有の文脈における「知の伝統」として捉えることはできるだろう。

    さて、次に目を向けたいのは中国である。ここでも「哲学」とよく似た思索の伝統が育まれてきた。その代表格が、諸子百家と総称される、多様な思想家たちである。
    「諸子」とは、さまざまな先生(子は先生のこと)のことであり、「百家」とは、思想的立場、いわば学派(家)のことを意味する。例えば、儒家、墨家、法家、道家などがある。

    まずは儒家。その始祖とされる孔子はあまりにも有名だ。彼の生きた時代は、いわゆる春秋戦国時代。孔子は、すでに崩壊しつつあった「周」の封建的な社会秩序を理想とし、家族的な道徳=仁を中心に据えた思想を展開した。

    中国の封建制は、血縁による主従関係であり、基本的に家族間によるものである。彼の思想における中心概念である「仁」は、血縁に基づく信頼や思いやりの拡張として、君主が人民を家族のように慈しみ、徳によって治めるという政治思想につながる。現代で言えば、「仁義」という言葉に近いかもしれない。孔子の語録を弟子たちがまとめたのが『論語』であり、渋沢栄一が著した『論語と算盤』でもその重要性が強調されている。

    孔子の弟子には多数の思想家がいるが、特に孟子と荀子は対照的な立場を取ったことで知られる。この二人は、「仁」と「徳」の解釈を大きく分けた。

    孟子は、「人間の本性は善である」と主張し、これを性善説と呼ぶ。彼は、天の声すなわち人民の声に耳を傾けることこそ「徳」であり、暴政を敷く君主は打倒されるべきだと考えた(易姓革命)。

    荀子は、「人間の本性は放っておけば悪に流れやすい」と考え、これを性悪説とした。人民を善の方へと導こうとすれば、「礼」すなわち「秩序と教育」が不可欠であり、それを通して初めて徳が生まれるのだと説いた。

    荀子の弟子である韓非は、儒家の「礼」ですら不十分であると見なし、人民を統治するには厳格な法と罰による管理が必要だと考えた。これが法家である。中国最初の統一王朝「秦」は、この思想を取り入れて成立したとされる。なお、「チャイナ(China)」という国名の語源はこの「秦(Qin)」に由来すると言われている。

    儒家に真っ向から異を唱えたのが、墨子を祖とする墨家である。彼は、家族、いわば血縁や階級に関わらず、すべての人を平等に愛すべきだと説いた(兼愛)。また、戦争には断固反対し(非攻)、ただし攻められた場合には徹底的に備えるべきだとも述べている(非行)。

    さらに、道家(老荘思想)にも触れておきたい。老荘というのは、老子・荘子の名前からとられている。彼らは「無為自然」を求めた。動物は戦争もなければ、贅沢や貧困もない。自然の法則(道)に従って生きているだけ。そのような自然に戻ろうとする。すなわち、人為的な秩序や規範を超えて、自然のあり方に従って生きるべきだという思想である。この感覚は、後の禅宗や茶道、俳句などの日本の「道」の文化にも深く影響を与えている。

    このように見てくると、「哲学」はけっしてギリシアに始まったのではなく、各地において異なるかたちで「知の探究」として立ち現れていたことがわかる。世界各地の思索のかたちに耳を傾けることで、私たちはより多元的に「哲学とは何か」という問いに近づいていくことができるだろう。

    次回以降も、西洋哲学以外の哲学、いわゆる「ワールド・フィロソフィー」の事例を紹介しながら、「知を求める営み」が世界でどのように育まれてきたのかを見ていきたい。

    【参考文献】
    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年。
    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。
    渡辺 精一『諸子百家』角川ソフィア、2020。
    マツダの由来
    https://www.faq.mazda.com/faq/show/6692?category_id=1321&site_domain=default#:~:text=%E7%A4%BE%E5%90%8D%E3%80%8C%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%80%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%80%81%E8%A5%BF,%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

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  • #11 哲学はことばに戻ってきた

    哲学と言語に関連があるのかと問われることがある。一見、異なる領域に見えるかもしれないが、実際は、両者の関係は思いのほか深い。

    そもそも「言語学」という学問自体、哲学から派生した側面がある。言語の本質や意味、記号、思考との関係といった問題は、かつて哲学が扱ってきたものであり、そこから徐々に専門性を高めるかたちで、言語学という分野が成立してきた。しかし、興味深いのは20世紀に入ってからの展開である。言語と哲学は、再び接近しはじめる。この動きを指して「言語論的転回(linguistic turn)」と呼ぶ。

    哲学の歴史を大きく三つの転換で捉える見方がある。

    古代の「存在論的転回」、近代の「認識論的転回」、そして現代の「言語論的転回」である。この分類は、あくまで大づかみな整理ではあるが、思索の座標軸として有効である。

    古代の存在論的転回においては、「世界」それ自体のあり方が問いの中心に据えられた。近代になると、「世界を知る私たち」の認識の成立が問題となる。そして現代においては、その「認識」すらも、言語という媒介なしには考えられないのではないか、という疑いから出発する。

    知は、言語によって構成される。そうした視点から、言語の分析を通して哲学的問題にアプローチする姿勢が生まれたのである。これが「言語論的転回」だ。

    この言語論的転回は、もともと分析哲学、つまり英米圏のいわゆるアングロサクソン系哲学の特徴を指す言葉であった。しかしやがて、フランスやドイツといった大陸系の哲学においても、言語という問題が中心的な位置を占めるようになる。

    すなわち、現代哲学の多くは、「言語」を思考の基盤としているのである。

    したがって、哲学と言語の関係は、今日において本質的な問いとなっている。それゆえ、現代哲学を学ぶうえでは、言語の問題を避けて通ることはできない。まして、言語学においても同様である。

    もっとも、こうした現代の動向に至るまでには、当然ながらそれ以前の哲学の流れを押さえておく必要がある。

    そこで次回からは、古代からひとまず近世までの哲学的展開を概観してみたい。以下に、その準備として図を添えておく。

    【参考文献】

    岡本裕一朗『教養として学んでおきたい哲学』マイナビ新書、2019年

    犬竹正幸『よくわかる哲学——古代から現代まで、哲学がわかれば人間がわかる』22世紀アート、2021年

    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。

    【タグ】

    哲学史, 言語哲学, 言語論的転回, 存在論, 認識論, 分析哲学, 西洋哲学, 思索, 知の構造, 言語と世界,

  • #10 音と言語、そして「線」の魅力について

    人がことばを理解するには、「音」が不可欠である。

    もちろん文字もことばを構成する一つの部品ではあるが、ことばの根源はやはり「音声」にある。そもそも文字は、ほんの数千年しかまだ使われていない。まして、庶民にまでも文字が広まったのはここ数百年の話であり、「音」を使ったことばよりもずっと若いのだ。

    そもそも音声を正確に捉え、違いを聞き分け、意味を理解する。これは、英語学習を含め、あらゆる語学における最も初歩であり、最も重要な部分であると言える。聞き取ることができなければ、コミュニケーションすら始まらない。

    例えば、日本語の語中で鼻音化する「ん」や英語にある20個の母音(日本語は「あいうえお」とされる)など、聞こえ方ひとつで意味が変わってしまう。

    だからこそ、音についてのこだわりは、ことばについてのこだわりと同義なのだ。

    ところで、みなさんイヤホンに対してこだわりはあるだろうか?

    僕は、昔はAirPods Proを使っていたが、最近はもっぱら有線イヤホン派(EarPods)だ。理由は単純明快。充電要らず・Bluetooth接続不要・遅延なし。

    音質については、正直なところ全くと言って良いほどこだわりがない。先ほど、音に対するこだわりを披露したばかりだが、実のところ「音の違いがわかる」のと「音の違いに感動する」のとは別の話だ。

    僕がイヤホンを使う場面というのは、オンライン講義の聴講や、ポッドキャストで「レディー」と「ジェントルマン」の声を聞くくらい。あまり吐息まで聞き取りたくないので、むしろ(ハイクオリティーな音で聞くよりも)このくらいがちょうどいい。

    それでも、有線イヤホンは気に入っている。それは、「音」を「接続」するというより、「ことば」と「身体感覚」とを繋げてくれる道具だからだ。この感覚はちょうど、印刷された書物を手にとる感覚に似ている。電子書籍も確かに便利だし、僕の蔵書の一部も電子書籍Kindleに移行しているが、紙のページをめくるあの触感には、「ことば」を五感で受け止める喜びがある。有線イヤホンにも、それと似たような「触覚的な安心感」があるのだ。

    言語学では、「意味とは、頭の中だけで生まれるのではなく、身体的経験に深く根差している」と考える立場がある(認知言語学の中核的な考え方)。そのことから考えれば、言葉の理解も、単なる情報処理ではなく、身体感覚と結びついた「経験」として捉えることができる。そう考えると、紙の本や有線イヤホンが持つアナログ的なあの感触も、決して無駄ではない。いや、むしろ、ことばを立体的に感じるための、重要な媒介なのかもしれない。

    もっとも、僕の生活環境はかなりデジタル化が進んでいる。本とメモ帳以外は、ほとんどすべてデジタルに移行した。教科書も辞書もiPad、予定はGoogleカレンダー、そして学習記録のノートすら、このサイトが代替している。

    そんな自称ハイテクな僕でさえ、イヤホンは有線なのだ。(本とメモ帳が紙のままなのは、また別の記事にて。)

    というわけで、今日はひとつ、皆様をEarPodsの布教へと誘いたい。有線イヤホンの世界へ、ようこそ。

    ここからは、単純に有線イヤホンの良いところを挙げておきたい。

    ① 安い

    まず何より、財布に優しい。言語の発達が必ずしも高価な道具に依存してこなかったように、音声を扱う機器にも高級であることは必要ない!

    ② 充電不要(環境に良い?)

    毎晩の充電から解放される。言語は日々使われてこそ研ぎ澄まされるものだが、道具のメンテナンスに気を取られていては本末転倒。また電気を使わないから環境にも良いだろう。

    ③ Bluetooth接続不要

    つながる・つながらない、といったストレスからの解放。話しかけても相手に声が届かなければ会話は成立しない。無線の不安定さは、まるで雑踏の中で会話をするようなものなのだ。

    ④ iPhoneの充電持ちが良くなる

    省電力という意味でも、無線より有線に軍配が上がる。話す・聴くという生理的行為を支える道具は、安定して稼働してくれることが大切だ。

    ⑤ 軽い

    重厚さではなく、軽やかさ。これは言葉づかいにも通じる。有線の物理的な軽さは、持ち運びやすさだけでなく、身体との親和性を高めてくれる。

    ⑥ 洗濯しても聞こえる

    ついポケットに入れたまま洗ってしまっても、なぜか無事なことが多い。壊れにくいというのは、どんなツールにとっても大きな強みだ。

    ⑦ 音質が良い

    言葉の繊細なイントネーション、アクセント、息遣い。これらを余すところなく伝えてくれる。とくに語学学習では、「曖昧母音」や「脱落音」を聴き分ける耳をつくることが大切で、そのためにはクリアな音質が欠かせない。

    ⑧ マイクの音質も良い

    話す側の信頼性も担保される。言語とは、発信と受信の双方が支え合う営みであり、どちらかが崩れると、対話は成り立たない。

    言葉の響きを、できるかぎり鮮明に、誤解なく届ける。

    その基本に立ち返ると、案外、有線イヤホンは理にかなっている。

    まるで、話すこと・聞くことの原初的な回路を取り戻すように。

    【参考文献】

    大堀 壽夫『認知言語学』東京大学出版会、2002年。

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。

    盛 庸「鼻濁音」『日医ニュース』、2019年9月5日。(青森県 南黒医師会報 第97号より転載)

    Wood, S. (2024, April 30). How many vowel sounds does English have? Babbel Magazine. https://www.babbel.com/en/magazine/english-vowel-sounds

    【タグ】

    有線イヤホン, 認知言語学,言語理解,文字,音

  • #9 斬れる英語と英語学習法

    僕の英語学習について尋ねられることが時折ある。そのたびに、つい説明がましく、ややこしいことを言ってきたように思う。というのも、これまで実に多様な学習法に手を出してきたからである。

    だが、最近の学習はきわめて単純である。もっぱら、アメリカのニュース雑誌『TIME』を読み、リスニングについては『New York Times Audio』を利用している。それだけだ。

    みなさんが思われているような、いわゆる文法問題を解いたり、リスニング問題を解いたりすることは、ほとんどない。

    もちろん、「文法」と言われる分野にまったく触れていないわけではない。英語学の総論的な本や、統語論、認知言語学といった言語学に関する本を読むことはある。ただし、それは文法問題を解けるようになるためというよりも、言語そのものの仕組みに関心があるからであって、一般的な意味での「文法学習」とは少し違う

    それでも、文法問題が解けなくなったとか、解けてもその根本が理解できない、というようなことはない。むしろ、日々、英語力は確実に育っているという実感がある。というのも、僕は日常的に英語を教える機会が多く、また週に数回、英語を使う必要のある施設でも働いているからだ。そのおかげで、学校英語的な理論も、話すときの感覚も、衰えてはいない。

    とはいえ、だからといって「読む・聴く」というインプットの訓練を怠っているわけではない。むしろ、これまで以上に意識して取り組んでいる。その中で、冒頭に挙げた『TIME』や『New York Times Audio』は非常に役に立っている。
    ただ、せっかくこうして学習の記録を保管できる場所があるのに、それを活用していないのはもったいない気がしてきた。

    というわけで、これからは、『TIME』や『New York Times Audio』から得た「覚えておきたい」あるいは「使えるようになりたい」英語表現・語彙などを記録・紹介していこうと思う。

    ここまでは、あくまでその告知である。
    なぜ僕が今、『TIME』を読むのか。その理由についても少し触れておきたい。

    僕は、今は亡き同時通訳者・松本道弘を英語の師と仰いでいる。彼は英語と武道を重ね合わせ、「英語道」という独自の理念を築いた人物だ。海外経験がなかったにもかかわらず、その英語は「斬れる英語」だった。

    「斬れる英語」というのも彼の造語で、日本人が使いがちな、息の詰まった硬直した英語ではなく、自在で鋭く、生きた英語のことを指している。
    僕はまだ、「斬れる英語」を使えてはいない。その「斬れる英語」を使えるようになるために、僕は今も英語を学び続けている。

    松本道弘は『TIME』を主要なインプット源としていた。そして、それを強く勧めてもいた。僕はその姿勢に感化され、自分も『TIME』を読むことにしたのだ。

    彼の理論によれば、英語習得の道には「迷人 → 鉄人 → 達人 → 名人」という段階があるという。僕自身は今、「鉄人」と「達人」の間にいると感じている。

    鉄人とは、単語を一つひとつ追うのではなく、英語をセンテンス単位で読めるようになった状態を指す。達人とは、行間を読み、文の背後にある「ハート」、つまり文脈や話者の思いまでも読み取ることができる段階である。もちろん、これは読み手としての話だけでなく、書き手・話し手としても同じことが求められる。

    僕の英語は、まだ肩に力が入りすぎていて、その「ハート」を感じ取るまでには至っていない。どうしても英文を追いかけるように読んでしまい、ニュースとして楽しめてはいない。つまり、まだ『TIME』を「読んでいる」というより、「必死に追いかけている」という段階にある。

    松本氏は「鉄人」の段階でこそ、多読・手書き・英英辞典の活用が重要だと言っている。僕もそれに倣って、今後はさらにそれらを意識的に続けていきたいと考えている。

    もちろん将来的には、「斬れる英語」を口にできるだけでなく、それにふさわしい英語を書き、読みこなす力も備えていかなければならない。
    そのためにこそ、『TIME』のような高密度・高品質な英語を、繰り返し読み、手を動かしてそうした力を身につけていきたいと考えている。

    この場所に、その学習の記録を少しずつ残していこうと思う。
    どうか、温かく見守っていただきたい。

    【参考文献】
    松本道弘『「タイム」を読んで英語名人』講談社+α新書、2000年。

    【タグ】
    英語学習,同時通訳,TIME,松本道弘,英語道,学習記録,英語読解

  • #8 All Roads Lead to Logos

    全ての道はローマに通ず。

    この有名なことわざは、12世紀のフランス神学者アラン・ド・リール(Alain de Lille)によるラテン語の格言に由来する。

    Mille viae ducunt homines per saecula Romam,

    Qui Dominum toto quaerere corde volunt.

    (千の道が時を超えて人々をローマへ導く。主を全身全霊で求める者たちにとって。)

    現代では「手段は違っていても同じ目的に達すること、真理は一つであること」といった意味で用いられる。我々が知るこのことわざは、日本語は英語の “All roads lead to Rome.” や、フランス語の “Tous les chemins mènent à Rome.” から輸入されたのであろう。

    この言葉を学問に敷衍するならば、こう言うことができる。

    「すべての学問は哲学に通ず」

    学問を深めていくと、次第に個別の問いが、より根本的な問いへと収束していく。そこに立ち現れるのが「哲学」である。

    そもそも「哲学」の語源である philosophia は、古代ギリシア語で「知を愛すること」を意味し、当時はあらゆる学問を包括する言葉として用いられていた。科学や芸術、なども哲学の一部であった。それぞれが細分化され、発展していったことで、現代の多様な学問分野が成立している。

    言語学もその例外ではない。音声、語彙、文法、意味といった言葉の形や使われ方をどんどん突き詰めていくと、必然的に「人はなぜことばを持つのか」「ことばは思考とどう関わるのか」といったような根源的な問い(哲学)に行き着くのだ。

    したがって、言語学とは、哲学へと通じる一つの道である。そしてその道は、まさに「全ての道はローマに通ず」の精神と重なるものだと言える。

    さて、実のところ、この記事を書く本来の目的は、岩波新書の『言語哲学がはじまる』(野矢茂樹)をまとめ、学習の記録として残しておくことにあった。

    ただ、その前に、どうしても哲学史の大まかな流れを一度整理しておきたくなり、今回はその準備として、こうして筆をとった。

    今後、高校生にもわかるような哲学史の入門書を手がかりにしながら、自分なりに咀嚼し、つたないながらも僕自身が考えたことや関連知識を少しずつ書き留めていければと思っている。

    【参考文献】

    野矢茂樹『言語哲学がはじまる』、岩波新書、2020年。

    Alain de Lille(アラン・ド・リール)によるラテン語の格言

    ※出典として明示されることが少ないため、原典確認は困難ですが、以下のような文献に言及が見られます。 Curtius, Ernst Robert. European Literature and the Latin Middle Ages. Princeton University Press, 1953.  引用格言: Mille viae ducunt homines per saecula Romam, Qui Dominum toto quaerere corde volunt.

    【タグ】

    哲学, 言語学, 言語哲学, 西洋思想史, 学問の起源, 知の系譜, 野矢茂樹, 哲学史入門

  • #7 それでは良い週末を!

    金曜日の夕方、テレビのニュース番組などを眺めていると、アナウンサーが「それでは良い週末を!」と締めくくる場面に出くわすことがある。だが、この表現にはどこかよそよそしさというか、微かな違和感がある。実際、「日本語らしくない」と感覚的に気づいている人も多いのではないだろうか。

    おそらく、「Have a good weekend!」という英語をそのまま訳した表現が、「よい週末を!」というかたちで日本語に定着しはじめたのだろう。

    そもそも、日本において「週末=お休み」という発想が社会全体に広まったのは戦後のことだという。それ以前にも週末という概念がなかったわけではないが、明治期に西洋の制度が導入されるまでは、休みは各自ばらばらに取るのが普通であり、「週末は休日」という共通認識は存在しなかったようだ。江戸時代の庶民は、寺社参りや市(いち)などの都合にあわせて、バラバラに休んでいたらしい。

    そんな日本に“週末”というライフスタイルが根づいた背景には、戦後のアメリカ文化の影響がある。つまり、「それでは良い週末を!」という言葉もまた、文化的な輸入品というわけである。

    このような言語的な影響のことを、言語干渉(language interference)と呼ぶ。言語社会学者・鈴木孝夫はこう説明している。「ある言語がそれまで接触のなかった別の言語と接触するようになると、そこに相互の交流が生じ、双方の言語の中に相手の言語によるいろいろな変化の起ることが知られている。このような言語変化を言語学では言語干渉(language interference)と呼んでいる」。

    日本語は、この言語干渉に対して比較的寛容な言語であるとされる。もちろん、「寛容」であるということは、裏返せば「不寛容」な言語も存在するということだ。だが、日本語は他国の文化、特にアメリカ文化を伴って輸入された言語要素を、積極的に受け入れてきた。そして、ときに独自の発展を遂げ、「日本語化」していく。その過程は、ある種の進化とも言える。

    先日の記事(#3)では、日本語の一人称代名詞について触れたが、今回は三人称代名詞、特に「彼」や「彼女」といった語に注目してみたい。実はこれらの三人称代名詞にも、言語干渉の影響がしっかりと現れている。

    今の日本語でも、「彼女」という語を聞いて、すぐに「she(彼女)」と英語の代名詞として捉える人は、あまり多くないだろう。「彼女」と言えば、多くの人は「女性」というよりも「恋人」の意味を想起するはずだ。なぜそのような感覚が生まれるのだろうか。

    もともと日本語には、三人称の代名詞において性別を区別する必要がなかった。男女を問わず「彼」と呼ぶのが一般的であり、それによって意思疎通が困難になることもなかった。現在のように、性差に応じて「彼」「彼女」と使い分ける習慣が定着したのは、明治以降の西洋化の流れの中で、英語教育を通じて導入された翻訳語が徐々に根づいていった結果である。

    たとえば、明治の文豪・森鴎外の代表作『舞姫』には、こんな一節がある。

    余とエリスとの交際は、この時までは余所目よそめに見るより清白なりき。は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業わざを教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。

    ここで「彼」と呼ばれているのは、エリスという女性である。そう、「彼女」ではなく、彼なのだ。このように、男女問わず「彼」と表現する用法が一般的だった。鴎外は文久2年(1862年)生まれであり、「彼女」が一般的になる前の人間である。

    その後、明治期に英語教育が普及する中で、「彼」に対応する女性形として「彼女」という語が登場した。もっとも、この新たな代名詞が一般に広く定着するまでには、一定の時間を要したようである。

    興味深いのは、「彼女」という語が単なる女性代名詞としての機能にとどまらず、次第に「恋人」という意味を帯びるようになった経緯である。この意味の転化について、少し考察を加えておきたい。

    かつて、小説などの文芸作品において、遊郭や芸者について言及する際、「〇〇の女(おんな)」という表現がしばしば用いられていた。しかし、この語はやや生々しく響くため、そうした表現を避ける意図から、「〇〇の彼女」という婉曲な言い換えが行われるようになったのではないか。こうした語用の積み重ねを通じて、「彼女」という語が「恋人」という意味を担うようになっていった可能性は十分に考えられる。

    この点については、今後あらためて文献をあたり、調査を進めてみたいと思う。

    さらには、恋人を意味する「彼女」に対応する語として「彼氏」という語も生まれた。これはタレントで作家の徳川夢声という人物による偶然の発明だったとも言われている。彼が執筆した『漫談集・見習諸勇列伝の巻』の中で、「彼女と彼の会話」と書くはずが、原稿の行数の都合で、「氏」を足して「彼氏」としたという逸話がある。

    これは、僕自身が国立国会図書館に資料を取り寄せており、該当部分の原文が確認でき次第、あらためてご紹介したい。

    近年では、SNSにはじまるインターネット媒体の普及も相まって、日本語はますます外来語や他言語からの影響を受けやすくなっている。今日も新しい言い回しや語彙が日々生まれ、変化し続けている。たとえば、「エモい」「マインドセット」「モチベーション」など。

    冒頭に戻るが、「それでは、良い週末を!」も含め、そのような言語の変遷に目を向けてみることは、「暇な週末」を少し知的な時間に変える一つの手段になるかもしれない。

    だからこそ?、今週末くらいは、翻訳くさい表現のままで言ってみたい。

    それでは、良い週末を!

    【参考文献】

    鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書、1973年。

    https://amzn.to/45cSmuw

    森鴎外『舞姫』青空文庫、1890年(原作年)。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html

    小学館『精選版 日本国語大辞典』。

    【タグ】

    言語干渉, 日本語, 三人称代名詞, ことばの変遷, 明治時代, 森鴎外, 言語文化, 翻訳, 近代化, 日本語教育, 言語文化論, 英語教育, Sociolinguistics

  • #6 年を取るのが楽しみになる… 話情報処理能力のピークは10代まで、と言うけれど。

    長寿は「良いこと」だと言われる。しかし、「年齢を重ねる」というのは、どこか死に近づいていくような響きがある。それだけでなく、あらゆる能力が衰えていくような印象がつきまとう。僕のような20代でさえ、そんなことを考えると少し憂鬱になる。

    人間の能力といえば、たとえばプロゲーマーの話がある。プロゲーマーを目指す若者にとって重要なのは、動作性知能、あるいはワーキングメモリと呼ばれる能力である。これらのピークはおおよそ10代後半から20代前半にかけて訪れ、それ以降は徐々に低下していくとされる。つまり、プロゲーマーとは、基本的に“若者だけがなれる職業”なのだ。

    もちろん、僕自身にも将来の夢があり、これからの人生はまだまだ長いと信じているので、希望を抱いて生きている。
    とはいえ、老後はどうだろう。たとえ定年が引き上げられたとしても、その先に待っているのは「能力の低下」ばかりなのだろうか。多くの研究によれば、中高年以降は、ほとんどすべての能力が徐々にピークを過ぎていくという。そう聞かされると、誰でも絶望感を覚えてしまうだろう。

    だが、ある研究は、その憂鬱を和らげてくれるかもしれない。

    認知心理学者・伊集院睦雄らの研究によれば、若者に比べて高齢者の方が「語彙能力」において優れていることがわかった。つまり、年齢とともに高まる能力も、確かに存在していたのだ。

    伊集院らは、加齢に伴って語彙数(具体的には和語・漢語・外来語)がどのように変化するかを調査した。その結果、和語や漢語に関しては、高齢者の方が若者よりもおよそ20%以上多く知っていることが明らかになった。

    ここで注意しておかなければならないのが、外来語である。外来語に関しては特段の年齢差が見られなかった。これはおそらく、昔の外来語(例えば、ランデブーやアベックのような昭和のカタカナ語)は若者には馴染みがなく、逆に新しく入ってきた外来語(例えば、エビデンスやアポイント)は高齢者にとって意味がとりにくい、という両方向のズレが相殺し合っているためだと考えられる。

    もちろん、長く生きていれば語彙が多くなるのは当然とも言える。しかし、それが数値としてデータに裏付けられているという事実には、やはりどこか安心させられる。
    特に、僕のように、日常的に文章を書く者(まだブログ歴1週間だが)にとっては、「年を取ればもっと良い文章が書けるかもしれない」と思えるのは、何とも心強い。加齢に対する漠然とした怖さが、少し薄らいだように感じる。いやむしろ、年齢を重ねることが、より良い文章を書くための土台になるのだと考えれば、楽しみにさえ思えてくる。

    ついでにもう一つ、加齢のメリットを紹介したい。それは、「都合の悪いことが聞こえにくくなる」ということだ。
    若者にとっては悩みの種かもしれないが、本人にとっては、ある意味でポジティブな効果をもたらすこともある。

    僕も覚えがある。

    例えば、

    ある場面ではこんな一面が、
    僕「ねぇ。おばあちゃん、お小遣いちょうだい!」
    祖母「え?なんだってー?耳が遠いのよ。」

    またある場面ではこんな一面が、

    僕「やったー!臨時収入だー!」
    祖母「あら、臨時収入!今日は焼肉ね。」

    誰しも、似たようなやりとりを経験したことがあるのではないだろうか。一見「とぼけているだけ」に思えるかもしれないが、実際はそうではないようだ。

    実際には、加齢によって音の聞こえ方そのものが変化する。研究によれば、「親密度」や「頻度」、「心像性(イメージの鮮明さ)」といった意味属性が、音声の聞き取りやすさに影響を与えるという。つまり、「意味のある言葉(関心のある言葉)」ほど耳に届きやすく、逆に「どうでもいい言葉(関心の薄い言葉)」は、自然と聞き流されてしまうのだ。

    このことから、「都合の悪いことは聞こえない」というのは、単なる冗談ではなく、ある程度の科学的根拠がある現象だと言える。

    年齢とともに、ストレスを生む言葉が聞こえにくくなり、嬉しい言葉だけが耳に届き、日々が前向きになる。そんなふうに考えると、年を取ることも、少し楽しみに思えてくる。

    【参考文献】
    辰巳格「言語能力の加齢変化と脳」『人工知能学会誌』第21巻第4号、2006年、pp. 490–498。
    Hartshorne, J. K., Tenenbaum, J. B., & Pinker, S. (2015). When does cognitive functioning peak? The asynchronous rise and fall of different cognitive abilities across the life span. Psychological Science, 26(4)

    【タグ】
    認知心理学, 認知神経科学, 発達心理学, 脳科学, 言語学, 心理言語学, 生涯発達理論, cognitive psychology, cognitive neuroscience, developmental psychology, brain science, linguistics, psycholinguistics, lifespan development

  • #5 三足の草鞋

    昨日、三足の草鞋を履きたいという話をした。すなわち、弁護士・心理士・学者として、それぞれの専門性を持ちつつ社会に貢献するという道である。しかし、そのための現時点での具体的なステップについては、まだ話していなかった。

    まず、弁護士としての道について。現在、司法試験を受けるための試験である予備試験に向けて、予備校を活用しながら日々学習を続けている。ただし、今年の合格は、正直なところ非常に厳しいと感じている。悔しさはあるが、現実として受け止める必要がある。そのため、今年は行政書士試験に確実に合格することを一つの通過点としたい。ただし、あくまでこれは司法試験合格のためのステップである。理想は、「司法試験の勉強をしていた延長線上に、結果として行政書士に合格していた」という形だ。主軸はあくまで司法試験であり、行政書士試験はその補助的な意味を持つに過ぎない。

    次に、心理士としての準備について。こちらも中長期的な視点が必要である。まずは心理学の知識を広く網羅的に習得することが不可欠であり、その初動として、2026年より心理学検定1級の取得を目指す予定だ。司法試験の学習の合間、あるいは息抜きとして、1日30分〜60分の学習時間を確保し、夏の検定試験(予備試験終了直後)に臨むつもりである。具体的な学習内容や計画は、2026年になってから「ことばノート」にて随時記録・共有していく。

    言語学者としては、まずは前提として、学部の卒業論文を通じて専門的な知識の獲得と整理を進めていくことになる。2025年および2026年の2年間で、学問的な知見を深めながら、そこから得られた理論や発見を、この「ことばノート」を通じて言語化していきたい。

    兎にも角にも、現時点において最も高い壁であるのは、やはり司法試験予備試験の合格である。三足の草鞋を成立させるためにも、まずはこの最初の一足(司法の草鞋)を確実に履きこなすことが、何よりも重要だ。

    最後に、「ことばノート」の意義について述べ、締め括ろう。

    第一に、これは僕にとって「検索可能なノート」であるという点が大きい。自分が関心を持つすべての領域(言語学、心理学、法学以外にも教育学など)を一か所に集約できる場所として設計している。ここにある検索機能は、僕の記憶の補助装置としても機能し、必要な情報をすぐに呼び出せるという意味で、実用的だ。そして何より、これはほとんど僕自身のために記録しているものなので、内容や表現に過度な制約を設ける必要もない。雑多であって構わないのだ。

    第二に、「見られている」という感覚も、ある種の動機付けとして作用している。昨日は、Robert Cialdiniの Influence: Science and Practice や、Peter Gollwitzerの「目標の自動化」理論を紹介したが、まさにああいった理論が僕自身にも働いていると感じる。目標を言語化し、他者の目に触れる形で共有することで、自己規律が強化されていく感覚がある。

    前回も引用したため、Influence: Science and Practice の人を動かす6つのアプローチを、改めて全て先に紹介しておこう。これは、アメリカの社会心理学者・Robert Cialdiniが提唱したもので、人間が他者のどんな影響を受け、行動しているのかを示している。

    ① Reciprocity(返報性):人は何かを受け取ると、それに対し、何かを返さなければならないという心理的な義務感を抱く傾向がある。

    ② Commitment and Consistency(一貫性):一度表明した意見や行動と整合するように、その後の行動を選択する傾向がある。

    ③ Social Proof(社会的証明):多数の人々が行っていることを「正しい」と認識し、それに従おうとする傾向がある。

    ④ Liking(好意):好意(好感)を持つ人からの提案や依頼には、他と比べより従いやすくなる傾向がある。

    ⑤ Authority(権威):専門家や高い地位にある人の言動に人は、流されやすいという傾向がある。

    ⑥ Scarcity(希少性):数や時間に限りのあるものには、より高い価値を見出し、行動が促されやすくなるという傾向がある。

    話を戻して、第三に、この「ことばノート」は、ある種の硬めのプロフィールとしても機能しうる。大学院のこれからの指導教員や教授陣に対して、自分がどのような関心を持ち、どのような知的スタンスを取っているかを伝える資料として活用できるし、また、知的関心を共有する新しい友人との対話の入口にもなる。これはCialdiniの言うところの「返報性の原理(reciprocity)」にも通じる側面があるだろう。自分の内面を開示することは、相手の内面を引き出す誘因にもなる。

    第四に、僭越ながら、このノートにはある程度の社会的意義もあるのではないかと考えている。僕は、「法」「こころ」「ことば」という三領域をまたぐ姿勢をとっているが、これらを横断しながら知識を整理・統合する営み自体が、「専門性の分断」に対する一つの応答(アンチテーゼ)となりうる。言い換えれば、「ことばノート」は、ある特定の学問領域の断片(点と点を)を橋渡しする(線にする)ための私的実験であり、他の誰かにとっても、専門領域の垣根を越える学びのロールモデルになれればと願っている。また、ここに書かれる内容の一部は、比較的難解な学術書や論文を、僕なりの視点と言葉で咀嚼し直したものである。そうした再構成は、ひとつの教育的試みとも言えるかもしれない。英語についての記述も含め、ことばを通して知の広がりと深化を促す場にしたい。そして、僕自身の内面と、社会的な営みがどのように「ことば」を通じて結ばれていくか、その軌跡を残していく。もしそれが、どこかの誰かの思索のきっかけや、学びのモチベーションになれば、それはこの上ない喜びである。

    【参考文献】

    Cialdini, R. B. (2001). Influence: Science and Practice (4th ed.). Allyn & Bacon.

    【タグ】

    社会心理学, 説得理論, 動機づけ, 行動経済学, コミュニケーション理論, 目標達成, 認知心理学, 人間行動, 心理学