前回は、ウパニシャッド哲学、すなわち現代インドの諸宗教が生まれる前夜について説明した。今回は仏教を紹介する。
特に、仏教がウパニシャッド哲学の基本理念をどう捉え、それをいかに実践に移していったかを見ていきたい。
まず確認しておきたいのは、仏教をはじめ、ウパニシャッド哲学を起源とする宗教では、輪廻転生からの解脱が必要であり、そのためには修行が不可欠と考えられているという点である。
仏教では、輪廻は「六道」と呼ばれる六つの世界「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」を巡るものとされる。この六つの世界での生死を断ち切るため(解脱するため)に修行が求められるのだ。
仏教において、輪廻は好ましくないものとして捉えられる。それは、輪廻の中で「四苦八苦」を経験せねばならないからである。仏教の開祖・釈迦の「四門出遊」のエピソードをご存知だろうか。
あるとき、釈迦は東門から外に出た。そこで老人を見て、「人は皆老いる」と気づいた。次に南門から出ると病人を見て、「人は病にかかる」と知った。さらに西門から出ると死人を見て、「人は死ぬ」と悟った。最後に北門から出たとき、修行僧(沙門)に出会い、老・病・死の苦しみから逃れる道があるのではないかと考えた。
このエピソードに見られるように、「四苦」とは、生・老・病・死の四つの苦しみである。これに加え、愛する者と別れる「愛別離苦」、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、求めても得られぬ「求不得苦」、心と身体を思い通りにできぬ「五蘊盛苦」を加えて「四苦八苦」と呼ぶ。
人は生きている限り、この苦しみからは逃れられない。
紀元前7世紀、ウパニシャッド哲学(特に「梵我一如」の先駆者)の中心人物ヤージュニャヴァルキヤはこう説いた。
「輪廻の原動力は、善(功徳)であれ悪(罪障)であれ、行為(業=カルマン)である。そして、そのカルマンを生み出すのは、欲求とその裏返しである嫌悪によって成る“欲望”である」。
言い換えれば、欲望を滅すれば、カルマンは消え、輪廻から脱することができるということだ。
釈迦はさらに深く考えた。欲望の根源には「生きたい」という根本的な欲求(渇愛)、そして無知(無明)や愚かさ(癡)があると見抜いた。輪廻を断ち切るには、この「生きたい」という根本的な欲求を克服せねばならない。
そこで釈迦は、この世界と、そこに生じる現象が、どのような因果関係(縁起)によって成り立っているのかを深く探求した。
彼は次のような法則にたどり着いた。
「これがあれば、かれ(それ)が成り立ち、これが生じれば、かれも生じる。これがなければ、かれは成り立たず、これが滅すれば、かれも滅する」。
このように、原因と結果の関係を検証することで、因果関係の真偽を見極めることができる。仏教では、この因果性の法則を「此縁性(しえんしょう)」と呼ぶ。
視点を西洋に転じてみよう。この「此縁性」、すなわち「因果性」の考えは、19世紀の近代においてようやく理論的に体系化された。功利主義や自由主義で知られる政治思想家、ジョン・スチュアート・ミル(J. S. Mill)は、「蓋然推理」として、同様の因果性の検証方法を提示している。紀元前に生きた釈迦がすでにそれを体得していたとすれば、これこそが「世界哲学(ワールド・フィロソフィー)」を学ぶ醍醐味であろう。
さて、こうした論理的な思索の中で釈迦が導いたものが「四諦(したい)」である。四諦とは、仏教における四つの真理であり、苦しみから解脱する道を説いたものだ。
この世は苦しみに満ちている(苦諦)。
苦しみには原因がある(集諦)。
苦しみは終わらせることができる(滅諦)。
そのための実践がある(道諦)。
この「道諦」で説かれる実践こそが「八正道」である。
八正道は次の八つの実践から成る。
正見(しょうけん):正しい見方をすること
正思惟(しょうしゆい):正しく考えること
正語(しょうご):正しい言葉を使うこと
正業(しょうぎょう):正しい行いをすること
正命(しょうみょう):正しい生活を送ること
正精進(しょうしょうじん):正しく努力すること
正念(しょうねん):正しく心を保つこと
正定(しょうじょう):正しく精神を集中させること
ここからは私見である。
仏教というと、どこか精神世界的なものという印象を抱いていた。しかし実際には、驚くほどの論理性と観察の緻密さをもって人間の存在を捉えている。むしろ西洋哲学に先んじていたとも言えるだろう。
もっとも、私にはその全容を理解する力はなく、多様な見解もあることから、ここでの深入りは避けておきたい。
【参考文献】
木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。
宮元 啓一『わかる仏教史』角川ソフィア文庫、2017年。
渋谷 申博『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』日本文芸社、2019年。
白取 春彦『完全版 仏教「超」入門』ディスカヴァー・トゥウェンティワン、2018年。
貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年。
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