カテゴリー: 哲学

  • #14 World Philosophy③ 仏教

    前回は、ウパニシャッド哲学、すなわち現代インドの諸宗教が生まれる前夜について説明した。今回は仏教を紹介する。

    特に、仏教がウパニシャッド哲学の基本理念をどう捉え、それをいかに実践に移していったかを見ていきたい。

    まず確認しておきたいのは、仏教をはじめ、ウパニシャッド哲学を起源とする宗教では、輪廻転生からの解脱が必要であり、そのためには修行が不可欠と考えられているという点である。

    仏教では、輪廻は「六道」と呼ばれる六つの世界「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」を巡るものとされる。この六つの世界での生死を断ち切るため(解脱するため)に修行が求められるのだ。

    仏教において、輪廻は好ましくないものとして捉えられる。それは、輪廻の中で「四苦八苦」を経験せねばならないからである。仏教の開祖・釈迦の「四門出遊」のエピソードをご存知だろうか。

    あるとき、釈迦は東門から外に出た。そこで老人を見て、「人は皆老いる」と気づいた。次に南門から出ると病人を見て、「人は病にかかる」と知った。さらに西門から出ると死人を見て、「人は死ぬ」と悟った。最後に北門から出たとき、修行僧(沙門)に出会い、老・病・死の苦しみから逃れる道があるのではないかと考えた。

    このエピソードに見られるように、「四苦」とは、生・老・病・死の四つの苦しみである。これに加え、愛する者と別れる「愛別離苦」、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、求めても得られぬ「求不得苦」、心と身体を思い通りにできぬ「五蘊盛苦」を加えて「四苦八苦」と呼ぶ。

    人は生きている限り、この苦しみからは逃れられない。

    紀元前7世紀、ウパニシャッド哲学(特に「梵我一如」の先駆者)の中心人物ヤージュニャヴァルキヤはこう説いた。
    「輪廻の原動力は、善(功徳)であれ悪(罪障)であれ、行為(業=カルマン)である。そして、そのカルマンを生み出すのは、欲求とその裏返しである嫌悪によって成る“欲望”である」。

    言い換えれば、欲望を滅すれば、カルマンは消え、輪廻から脱することができるということだ。

    釈迦はさらに深く考えた。欲望の根源には「生きたい」という根本的な欲求(渇愛)、そして無知(無明)や愚かさ(癡)があると見抜いた。輪廻を断ち切るには、この「生きたい」という根本的な欲求を克服せねばならない。

    そこで釈迦は、この世界と、そこに生じる現象が、どのような因果関係(縁起)によって成り立っているのかを深く探求した。

    彼は次のような法則にたどり着いた。

    「これがあれば、かれ(それ)が成り立ち、これが生じれば、かれも生じる。これがなければ、かれは成り立たず、これが滅すれば、かれも滅する」。

    このように、原因と結果の関係を検証することで、因果関係の真偽を見極めることができる。仏教では、この因果性の法則を「此縁性(しえんしょう)」と呼ぶ。

    視点を西洋に転じてみよう。この「此縁性」、すなわち「因果性」の考えは、19世紀の近代においてようやく理論的に体系化された。功利主義や自由主義で知られる政治思想家、ジョン・スチュアート・ミル(J. S. Mill)は、「蓋然推理」として、同様の因果性の検証方法を提示している。紀元前に生きた釈迦がすでにそれを体得していたとすれば、これこそが「世界哲学(ワールド・フィロソフィー)」を学ぶ醍醐味であろう。

    さて、こうした論理的な思索の中で釈迦が導いたものが「四諦(したい)」である。四諦とは、仏教における四つの真理であり、苦しみから解脱する道を説いたものだ。

    この世は苦しみに満ちている(苦諦)。
    苦しみには原因がある(集諦)。
    苦しみは終わらせることができる(滅諦)。
    そのための実践がある(道諦)。

    この「道諦」で説かれる実践こそが「八正道」である。
    八正道は次の八つの実践から成る。

    正見(しょうけん):正しい見方をすること

    正思惟(しょうしゆい):正しく考えること

    正語(しょうご):正しい言葉を使うこと

    正業(しょうぎょう):正しい行いをすること

    正命(しょうみょう):正しい生活を送ること

    正精進(しょうしょうじん):正しく努力すること

    正念(しょうねん):正しく心を保つこと

    正定(しょうじょう):正しく精神を集中させること

    ここからは私見である。
    仏教というと、どこか精神世界的なものという印象を抱いていた。しかし実際には、驚くほどの論理性と観察の緻密さをもって人間の存在を捉えている。むしろ西洋哲学に先んじていたとも言えるだろう。

    もっとも、私にはその全容を理解する力はなく、多様な見解もあることから、ここでの深入りは避けておきたい。

    【参考文献】

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。
    宮元 啓一『わかる仏教史』角川ソフィア文庫、2017年。
    渋谷 申博『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』日本文芸社、2019年。
    白取 春彦『完全版 仏教「超」入門』ディスカヴァー・トゥウェンティワン、2018年。
    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年。

    【タグ】

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  • #13 World Philosophy② 仏教前史

    World Philosophyとは、「哲学とは西洋の専売特許ではなく、人類すべてが共有する営みである」とする立場である。前回に引き続き、今回はその視点から、アジアにおける思索の途をたどってみたい。

    とりわけ、日本や中国をはじめとする東アジアの精神文化に深く影響を与えてきた仏教の歴史、いわゆる「仏教史」について考察する。

    ただし、仏教の教えや歴史は、宗派の多様性と地域的変遷によって、あまりに複雑化している。そもそも初期の形を正確に描き出すことすら難しく、また、歴史を「追う」と言っても、その解釈は常に議論と再検討の対象である。

    そこで本サイトでは、仏教について詳細な教義や宗派論に深入りすることは避け、あくまで思想の大きな流れをざっくりと掴むことを目指す。そのうえで、僕自身の視点から、いくつかの解釈を交えながら紹介したい。

    まず、今回は、仏教のもとになったといわれる「ウパニシャッド哲学」から取り扱おう。

    たとえばギリシア哲学が生まれた背景には、アテネとスパルタの戦争があり、そのなかでソクラテスやプラトンが世の中を見つめ直すことで、哲学的思索が芽生えた。前回の記事(#12)で紹介した諸子百家も、春秋戦国という争乱の時代に登場している。そして、このウパニシャッド哲学もまた、インドにおける抗争と混乱の中から生まれてきた。

    これらは共通し、「生きるとは何か」を改めて問うことで誕生したとも考えられる。

    さて、もともとインドには、自然崇拝を中心としたバラモン教が根付いていた。だがそのバラモン教は、やがて形式化・形骸化し、祭祀を行うことが目的化されていった。司祭であるバラモン(=お坊さんの意)が、ただ儀式を執り行う存在になってしまったのだ。

    そうした外面的な宗教儀礼に対する反省と批判から登場したのが、ウパニシャッド哲学である。より内面的で、心の中で考えることを重視し、バラモン教の聖典であるリグ=ヴェーダの本来の姿である宇宙の根本や普遍的な真実、いわば「世の中の真理」を探究しようとする動きであった。

    ウパニシャッドとは、もともと「近くに座ること」、すなわち「秘儀を伝えること」を意味する。祭司バラモンの師から弟子に伝えられた、口伝の奥義であり、のちに文献化されたものが「奥義書(ウパニシャッド)」と呼ばれている。成立は前500年頃までにさかのぼるとされる。

    「ウパニシャッド(奥義書)」についてもう少し説明を加えよう。

    ウパニシャッド文献は、バラモン教の聖典リグ=ヴェーダの四部構成のうち、第四部にあたる。

    その内容は、哲学的な問い「生命とは何か」「死とは何か」などに正面から取り組むものだった。

    個人の本質である魂=アートマン(我)は不滅であり、たとえ肉体が滅びても存在し続ける。このアートマンが現世の肉体に宿るとき、新しい生命がこの世に誕生する。

    そして、肉体が死を迎えると、アートマンはその身体を離れ、本来の故郷へ、すなわち、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)へと回帰する。それによって、魂は一切の苦しみから解き放たれる。これが解脱である。

    しかし、解脱を果たせなかった魂は、再びこの世に生まれ変わる。肉体を得て地上に戻ることで、また新たな「生」が始まり、「死」を迎え、このようにして永遠に生と死を繰り返す。これが輪廻転生である。

    そしてウパニシャッドの思想家たちは、この永遠の輪廻こそが魂の平安を妨げるものであり、断ち切るべき苦しみの連鎖だと考えた。

    とはいえ、輪廻と聞けば、多くの日本人にとっては、どこか神秘的で美しいイメージを持たれるかもしれない。しかし、インドにおいて輪廻とは、むしろ「苦しみの連鎖」である。

    人生とは本来的に苦しみに満ち、死とはさらに大きな苦しみである。それを何度も繰り返すことは、「望ましくないこと」なのだ。輪廻から早く抜け出す(解脱する)ことこそが、インド思想の重要な目標なのである。

    さて、インドの思想家たちは、そうした人生の苦しみの根本構造を、論理的に考え抜いた。その帰結として、「アートマン(我)とブラフマン(梵)は本質的に同一である」という宇宙の真理、いわゆる梵我一如(ぼんがいちにょ)が生まれた。

    この宇宙の真理、すなわち「梵我一如(ぼんがいちにょ)」を深く理解することができたとき、魂はすべての苦しみから解放され、解脱に至るのだ。

    ただし、その境地に達するためには、生きている間に修行を積む必要がある。この「修行のあり方」をめぐる解釈と実践の違いによって、やがてジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教など、さまざまな宗派が生まれていくことになった。

    つまり、インドにおける仏教をはじめとする諸宗教は、ウパニシャッド哲学を母体として成立しているのである。

    では、仏教の祖である釈迦は、この「修行」というものを、いかに定義したのだろうか。

    次回は、そこから話を続けることにしよう。

    【参考文献】

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。

    宮元 啓一『わかる仏教史』角川ソフィア文庫、2017年。

    渋谷 申博『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』日本文芸社、2019年。

    白取 春彦『完全版 仏教「超」入門』ディスカヴァー・トゥウェンティワン、2018年。

    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年。

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  • #12 World Philosophy① ゾロアスター教・諸子百家

    昨日は、「言語と哲学」には深いつながりがあること、そしてその関係を理解するためには哲学の歴史をたどる必要があるという結論に至った。しかしながら、そこにおいて想定されていた「哲学」は、あくまで西洋的な視座に立つものであった。

    確かに、現代の学問体系の基礎に位置づけられているのは、輸入された西洋哲学であると言ってよい。だが、物事の根源に問いを立てる営みは、西洋に固有のものではない。東洋においても、中東においても、あるいはもっと小さな共同体の内部においてさえ、人々は「なぜそうなのか」と問うてきた。

    今後、西洋哲学を中心にその展開をたどる予定であるが、それに先立ち、「西洋だけが哲学を生み出した」という物語に無自覚なまま語ることがないように、今回から数回に渡り、いわゆるワールド・フィロソフィー(世界の哲学)の視点にもしばし目を向けておきたい。これは、西洋的視点の相対化という意味でもあり、また同時に、アメリカナイズされた思想的枠組みから一歩引くための試みでもある。

    とりわけ今回は、「知の探究」が人類の歴史においていかに形を取り始めたのか、その初期の顕著な事例として、古代ペルシアのゾロアスター教と、中国の諸子百家の思想を取り上げたい。

    その後、ようやく小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』を手がかりに、日本語という言語が持つ特異な構造と思考様式をたどりつつ、改めて西洋哲学の流れに目を向ける予定である。

    さて、「哲学のはじまりは古代ギリシアである」という通念は、今なお広く信じられている。しかし、それ以前に人類が「知とは何か」「いかに生きるべきか」等といった根源的な問いを抱き、それに答えを見出そうとした営みは確かに存在した。

    たとえば、古代ペルシア(現イラン)におけるゾロアスター教が挙げられる。この宗教は、神話のような断片的言語世界ではなく、善と悪の二つの対立という明確な思想体系を提示した。この二つの対立は、人間の自由な意思による倫理的選択を求めた点で、哲学的思索のはじまりと見ることができる。

    創始者ザラシュトラ(Zarathustra)の名は、西洋ではゾロアスターとして知られる。彼が説いた教えは、先に述べた二つの対立、光の神アフラ・マズダ(Ahura Mazda)と闇の神アーリマンの関係を中心とする。

    ちなみに、日本の自動車メーカー「マツダ(Mazda)」の綴りがMATSUDAではなくMAZDAであるのは、このアフラ・マズダにちなんだ命名であることが逸話として知られている。

    さて、この二つが対立するという二元論的世界観は、人間がどちらの方に加担するかを自分で選ぶ責任を強調している。さらに、この宗教は終末には「救世主の到来」と「最後の審判」があると説いた点でも、ユダヤ教・キリスト教・イスラームといった後に続く一神教に深い影響を与えた。

    ゾロアスター教は7世紀にイスラーム勢力のイラン進出によって衰退したものの、一部の信徒たちはインドへと逃れ、パールスィー教徒として現在も信仰を守り続けている。また、中央アジアのソグド人などを通じて東アジアにも伝えられ、中国の唐代では祆教(けんきょう)として一時的に広まった。

    このゾロアスター教の思想は、現代でいうところの「ペルシア哲学」へと連なっていく。ペルシア哲学は、西洋哲学や中国哲学のように明確な体系を持っているわけではないが、地域固有の文脈における「知の伝統」として捉えることはできるだろう。

    さて、次に目を向けたいのは中国である。ここでも「哲学」とよく似た思索の伝統が育まれてきた。その代表格が、諸子百家と総称される、多様な思想家たちである。
    「諸子」とは、さまざまな先生(子は先生のこと)のことであり、「百家」とは、思想的立場、いわば学派(家)のことを意味する。例えば、儒家、墨家、法家、道家などがある。

    まずは儒家。その始祖とされる孔子はあまりにも有名だ。彼の生きた時代は、いわゆる春秋戦国時代。孔子は、すでに崩壊しつつあった「周」の封建的な社会秩序を理想とし、家族的な道徳=仁を中心に据えた思想を展開した。

    中国の封建制は、血縁による主従関係であり、基本的に家族間によるものである。彼の思想における中心概念である「仁」は、血縁に基づく信頼や思いやりの拡張として、君主が人民を家族のように慈しみ、徳によって治めるという政治思想につながる。現代で言えば、「仁義」という言葉に近いかもしれない。孔子の語録を弟子たちがまとめたのが『論語』であり、渋沢栄一が著した『論語と算盤』でもその重要性が強調されている。

    孔子の弟子には多数の思想家がいるが、特に孟子と荀子は対照的な立場を取ったことで知られる。この二人は、「仁」と「徳」の解釈を大きく分けた。

    孟子は、「人間の本性は善である」と主張し、これを性善説と呼ぶ。彼は、天の声すなわち人民の声に耳を傾けることこそ「徳」であり、暴政を敷く君主は打倒されるべきだと考えた(易姓革命)。

    荀子は、「人間の本性は放っておけば悪に流れやすい」と考え、これを性悪説とした。人民を善の方へと導こうとすれば、「礼」すなわち「秩序と教育」が不可欠であり、それを通して初めて徳が生まれるのだと説いた。

    荀子の弟子である韓非は、儒家の「礼」ですら不十分であると見なし、人民を統治するには厳格な法と罰による管理が必要だと考えた。これが法家である。中国最初の統一王朝「秦」は、この思想を取り入れて成立したとされる。なお、「チャイナ(China)」という国名の語源はこの「秦(Qin)」に由来すると言われている。

    儒家に真っ向から異を唱えたのが、墨子を祖とする墨家である。彼は、家族、いわば血縁や階級に関わらず、すべての人を平等に愛すべきだと説いた(兼愛)。また、戦争には断固反対し(非攻)、ただし攻められた場合には徹底的に備えるべきだとも述べている(非行)。

    さらに、道家(老荘思想)にも触れておきたい。老荘というのは、老子・荘子の名前からとられている。彼らは「無為自然」を求めた。動物は戦争もなければ、贅沢や貧困もない。自然の法則(道)に従って生きているだけ。そのような自然に戻ろうとする。すなわち、人為的な秩序や規範を超えて、自然のあり方に従って生きるべきだという思想である。この感覚は、後の禅宗や茶道、俳句などの日本の「道」の文化にも深く影響を与えている。

    このように見てくると、「哲学」はけっしてギリシアに始まったのではなく、各地において異なるかたちで「知の探究」として立ち現れていたことがわかる。世界各地の思索のかたちに耳を傾けることで、私たちはより多元的に「哲学とは何か」という問いに近づいていくことができるだろう。

    次回以降も、西洋哲学以外の哲学、いわゆる「ワールド・フィロソフィー」の事例を紹介しながら、「知を求める営み」が世界でどのように育まれてきたのかを見ていきたい。

    【参考文献】
    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年。
    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。
    渡辺 精一『諸子百家』角川ソフィア、2020。
    マツダの由来
    https://www.faq.mazda.com/faq/show/6692?category_id=1321&site_domain=default#:~:text=%E7%A4%BE%E5%90%8D%E3%80%8C%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%80%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%80%81%E8%A5%BF,%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

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  • #11 哲学はことばに戻ってきた

    哲学と言語に関連があるのかと問われることがある。一見、異なる領域に見えるかもしれないが、実際は、両者の関係は思いのほか深い。

    そもそも「言語学」という学問自体、哲学から派生した側面がある。言語の本質や意味、記号、思考との関係といった問題は、かつて哲学が扱ってきたものであり、そこから徐々に専門性を高めるかたちで、言語学という分野が成立してきた。しかし、興味深いのは20世紀に入ってからの展開である。言語と哲学は、再び接近しはじめる。この動きを指して「言語論的転回(linguistic turn)」と呼ぶ。

    哲学の歴史を大きく三つの転換で捉える見方がある。

    古代の「存在論的転回」、近代の「認識論的転回」、そして現代の「言語論的転回」である。この分類は、あくまで大づかみな整理ではあるが、思索の座標軸として有効である。

    古代の存在論的転回においては、「世界」それ自体のあり方が問いの中心に据えられた。近代になると、「世界を知る私たち」の認識の成立が問題となる。そして現代においては、その「認識」すらも、言語という媒介なしには考えられないのではないか、という疑いから出発する。

    知は、言語によって構成される。そうした視点から、言語の分析を通して哲学的問題にアプローチする姿勢が生まれたのである。これが「言語論的転回」だ。

    この言語論的転回は、もともと分析哲学、つまり英米圏のいわゆるアングロサクソン系哲学の特徴を指す言葉であった。しかしやがて、フランスやドイツといった大陸系の哲学においても、言語という問題が中心的な位置を占めるようになる。

    すなわち、現代哲学の多くは、「言語」を思考の基盤としているのである。

    したがって、哲学と言語の関係は、今日において本質的な問いとなっている。それゆえ、現代哲学を学ぶうえでは、言語の問題を避けて通ることはできない。まして、言語学においても同様である。

    もっとも、こうした現代の動向に至るまでには、当然ながらそれ以前の哲学の流れを押さえておく必要がある。

    そこで次回からは、古代からひとまず近世までの哲学的展開を概観してみたい。以下に、その準備として図を添えておく。

    【参考文献】

    岡本裕一朗『教養として学んでおきたい哲学』マイナビ新書、2019年

    犬竹正幸『よくわかる哲学——古代から現代まで、哲学がわかれば人間がわかる』22世紀アート、2021年

    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。

    【タグ】

    哲学史, 言語哲学, 言語論的転回, 存在論, 認識論, 分析哲学, 西洋哲学, 思索, 知の構造, 言語と世界,