金曜日の夕方、テレビのニュース番組などを眺めていると、アナウンサーが「それでは良い週末を!」と締めくくる場面に出くわすことがある。だが、この表現にはどこかよそよそしさというか、微かな違和感がある。実際、「日本語らしくない」と感覚的に気づいている人も多いのではないだろうか。
おそらく、「Have a good weekend!」という英語をそのまま訳した表現が、「よい週末を!」というかたちで日本語に定着しはじめたのだろう。
そもそも、日本において「週末=お休み」という発想が社会全体に広まったのは戦後のことだという。それ以前にも週末という概念がなかったわけではないが、明治期に西洋の制度が導入されるまでは、休みは各自ばらばらに取るのが普通であり、「週末は休日」という共通認識は存在しなかったようだ。江戸時代の庶民は、寺社参りや市(いち)などの都合にあわせて、バラバラに休んでいたらしい。
そんな日本に“週末”というライフスタイルが根づいた背景には、戦後のアメリカ文化の影響がある。つまり、「それでは良い週末を!」という言葉もまた、文化的な輸入品というわけである。
このような言語的な影響のことを、言語干渉(language interference)と呼ぶ。言語社会学者・鈴木孝夫はこう説明している。「ある言語がそれまで接触のなかった別の言語と接触するようになると、そこに相互の交流が生じ、双方の言語の中に相手の言語によるいろいろな変化の起ることが知られている。このような言語変化を言語学では言語干渉(language interference)と呼んでいる」。
日本語は、この言語干渉に対して比較的寛容な言語であるとされる。もちろん、「寛容」であるということは、裏返せば「不寛容」な言語も存在するということだ。だが、日本語は他国の文化、特にアメリカ文化を伴って輸入された言語要素を、積極的に受け入れてきた。そして、ときに独自の発展を遂げ、「日本語化」していく。その過程は、ある種の進化とも言える。
先日の記事(#3)では、日本語の一人称代名詞について触れたが、今回は三人称代名詞、特に「彼」や「彼女」といった語に注目してみたい。実はこれらの三人称代名詞にも、言語干渉の影響がしっかりと現れている。
今の日本語でも、「彼女」という語を聞いて、すぐに「she(彼女)」と英語の代名詞として捉える人は、あまり多くないだろう。「彼女」と言えば、多くの人は「女性」というよりも「恋人」の意味を想起するはずだ。なぜそのような感覚が生まれるのだろうか。
もともと日本語には、三人称の代名詞において性別を区別する必要がなかった。男女を問わず「彼」と呼ぶのが一般的であり、それによって意思疎通が困難になることもなかった。現在のように、性差に応じて「彼」「彼女」と使い分ける習慣が定着したのは、明治以降の西洋化の流れの中で、英語教育を通じて導入された翻訳語が徐々に根づいていった結果である。
たとえば、明治の文豪・森鴎外の代表作『舞姫』には、こんな一節がある。
余とエリスとの交際は、この時までは余所目よそめに見るより清白なりき。彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業わざを教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。
ここで「彼」と呼ばれているのは、エリスという女性である。そう、「彼女」ではなく、彼なのだ。このように、男女問わず「彼」と表現する用法が一般的だった。鴎外は文久2年(1862年)生まれであり、「彼女」が一般的になる前の人間である。
その後、明治期に英語教育が普及する中で、「彼」に対応する女性形として「彼女」という語が登場した。もっとも、この新たな代名詞が一般に広く定着するまでには、一定の時間を要したようである。
興味深いのは、「彼女」という語が単なる女性代名詞としての機能にとどまらず、次第に「恋人」という意味を帯びるようになった経緯である。この意味の転化について、少し考察を加えておきたい。
かつて、小説などの文芸作品において、遊郭や芸者について言及する際、「〇〇の女(おんな)」という表現がしばしば用いられていた。しかし、この語はやや生々しく響くため、そうした表現を避ける意図から、「〇〇の彼女」という婉曲な言い換えが行われるようになったのではないか。こうした語用の積み重ねを通じて、「彼女」という語が「恋人」という意味を担うようになっていった可能性は十分に考えられる。
この点については、今後あらためて文献をあたり、調査を進めてみたいと思う。
さらには、恋人を意味する「彼女」に対応する語として「彼氏」という語も生まれた。これはタレントで作家の徳川夢声という人物による偶然の発明だったとも言われている。彼が執筆した『漫談集・見習諸勇列伝の巻』の中で、「彼女と彼の会話」と書くはずが、原稿の行数の都合で、「氏」を足して「彼氏」としたという逸話がある。
これは、僕自身が国立国会図書館に資料を取り寄せており、該当部分の原文が確認でき次第、あらためてご紹介したい。
近年では、SNSにはじまるインターネット媒体の普及も相まって、日本語はますます外来語や他言語からの影響を受けやすくなっている。今日も新しい言い回しや語彙が日々生まれ、変化し続けている。たとえば、「エモい」「マインドセット」「モチベーション」など。
冒頭に戻るが、「それでは、良い週末を!」も含め、そのような言語の変遷に目を向けてみることは、「暇な週末」を少し知的な時間に変える一つの手段になるかもしれない。
だからこそ?、今週末くらいは、翻訳くさい表現のままで言ってみたい。
それでは、良い週末を!
【参考文献】
鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書、1973年。
森鴎外『舞姫』青空文庫、1890年(原作年)。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html
小学館『精選版 日本国語大辞典』。
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