カテゴリー: 言語学

  • #11 哲学はことばに戻ってきた

    哲学と言語に関連があるのかと問われることがある。一見、異なる領域に見えるかもしれないが、実際は、両者の関係は思いのほか深い。

    そもそも「言語学」という学問自体、哲学から派生した側面がある。言語の本質や意味、記号、思考との関係といった問題は、かつて哲学が扱ってきたものであり、そこから徐々に専門性を高めるかたちで、言語学という分野が成立してきた。しかし、興味深いのは20世紀に入ってからの展開である。言語と哲学は、再び接近しはじめる。この動きを指して「言語論的転回(linguistic turn)」と呼ぶ。

    哲学の歴史を大きく三つの転換で捉える見方がある。

    古代の「存在論的転回」、近代の「認識論的転回」、そして現代の「言語論的転回」である。この分類は、あくまで大づかみな整理ではあるが、思索の座標軸として有効である。

    古代の存在論的転回においては、「世界」それ自体のあり方が問いの中心に据えられた。近代になると、「世界を知る私たち」の認識の成立が問題となる。そして現代においては、その「認識」すらも、言語という媒介なしには考えられないのではないか、という疑いから出発する。

    知は、言語によって構成される。そうした視点から、言語の分析を通して哲学的問題にアプローチする姿勢が生まれたのである。これが「言語論的転回」だ。

    この言語論的転回は、もともと分析哲学、つまり英米圏のいわゆるアングロサクソン系哲学の特徴を指す言葉であった。しかしやがて、フランスやドイツといった大陸系の哲学においても、言語という問題が中心的な位置を占めるようになる。

    すなわち、現代哲学の多くは、「言語」を思考の基盤としているのである。

    したがって、哲学と言語の関係は、今日において本質的な問いとなっている。それゆえ、現代哲学を学ぶうえでは、言語の問題を避けて通ることはできない。まして、言語学においても同様である。

    もっとも、こうした現代の動向に至るまでには、当然ながらそれ以前の哲学の流れを押さえておく必要がある。

    そこで次回からは、古代からひとまず近世までの哲学的展開を概観してみたい。以下に、その準備として図を添えておく。

    【参考文献】

    岡本裕一朗『教養として学んでおきたい哲学』マイナビ新書、2019年

    犬竹正幸『よくわかる哲学——古代から現代まで、哲学がわかれば人間がわかる』22世紀アート、2021年

    貫成人『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』角川文庫、2019年

    木村 靖ニ『詳説 世界史探究』山川出版社、2017年。

    【タグ】

    哲学史, 言語哲学, 言語論的転回, 存在論, 認識論, 分析哲学, 西洋哲学, 思索, 知の構造, 言語と世界,

  • #7 それでは良い週末を!

    金曜日の夕方、テレビのニュース番組などを眺めていると、アナウンサーが「それでは良い週末を!」と締めくくる場面に出くわすことがある。だが、この表現にはどこかよそよそしさというか、微かな違和感がある。実際、「日本語らしくない」と感覚的に気づいている人も多いのではないだろうか。

    おそらく、「Have a good weekend!」という英語をそのまま訳した表現が、「よい週末を!」というかたちで日本語に定着しはじめたのだろう。

    そもそも、日本において「週末=お休み」という発想が社会全体に広まったのは戦後のことだという。それ以前にも週末という概念がなかったわけではないが、明治期に西洋の制度が導入されるまでは、休みは各自ばらばらに取るのが普通であり、「週末は休日」という共通認識は存在しなかったようだ。江戸時代の庶民は、寺社参りや市(いち)などの都合にあわせて、バラバラに休んでいたらしい。

    そんな日本に“週末”というライフスタイルが根づいた背景には、戦後のアメリカ文化の影響がある。つまり、「それでは良い週末を!」という言葉もまた、文化的な輸入品というわけである。

    このような言語的な影響のことを、言語干渉(language interference)と呼ぶ。言語社会学者・鈴木孝夫はこう説明している。「ある言語がそれまで接触のなかった別の言語と接触するようになると、そこに相互の交流が生じ、双方の言語の中に相手の言語によるいろいろな変化の起ることが知られている。このような言語変化を言語学では言語干渉(language interference)と呼んでいる」。

    日本語は、この言語干渉に対して比較的寛容な言語であるとされる。もちろん、「寛容」であるということは、裏返せば「不寛容」な言語も存在するということだ。だが、日本語は他国の文化、特にアメリカ文化を伴って輸入された言語要素を、積極的に受け入れてきた。そして、ときに独自の発展を遂げ、「日本語化」していく。その過程は、ある種の進化とも言える。

    先日の記事(#3)では、日本語の一人称代名詞について触れたが、今回は三人称代名詞、特に「彼」や「彼女」といった語に注目してみたい。実はこれらの三人称代名詞にも、言語干渉の影響がしっかりと現れている。

    今の日本語でも、「彼女」という語を聞いて、すぐに「she(彼女)」と英語の代名詞として捉える人は、あまり多くないだろう。「彼女」と言えば、多くの人は「女性」というよりも「恋人」の意味を想起するはずだ。なぜそのような感覚が生まれるのだろうか。

    もともと日本語には、三人称の代名詞において性別を区別する必要がなかった。男女を問わず「彼」と呼ぶのが一般的であり、それによって意思疎通が困難になることもなかった。現在のように、性差に応じて「彼」「彼女」と使い分ける習慣が定着したのは、明治以降の西洋化の流れの中で、英語教育を通じて導入された翻訳語が徐々に根づいていった結果である。

    たとえば、明治の文豪・森鴎外の代表作『舞姫』には、こんな一節がある。

    余とエリスとの交際は、この時までは余所目よそめに見るより清白なりき。は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業わざを教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。

    ここで「彼」と呼ばれているのは、エリスという女性である。そう、「彼女」ではなく、彼なのだ。このように、男女問わず「彼」と表現する用法が一般的だった。鴎外は文久2年(1862年)生まれであり、「彼女」が一般的になる前の人間である。

    その後、明治期に英語教育が普及する中で、「彼」に対応する女性形として「彼女」という語が登場した。もっとも、この新たな代名詞が一般に広く定着するまでには、一定の時間を要したようである。

    興味深いのは、「彼女」という語が単なる女性代名詞としての機能にとどまらず、次第に「恋人」という意味を帯びるようになった経緯である。この意味の転化について、少し考察を加えておきたい。

    かつて、小説などの文芸作品において、遊郭や芸者について言及する際、「〇〇の女(おんな)」という表現がしばしば用いられていた。しかし、この語はやや生々しく響くため、そうした表現を避ける意図から、「〇〇の彼女」という婉曲な言い換えが行われるようになったのではないか。こうした語用の積み重ねを通じて、「彼女」という語が「恋人」という意味を担うようになっていった可能性は十分に考えられる。

    この点については、今後あらためて文献をあたり、調査を進めてみたいと思う。

    さらには、恋人を意味する「彼女」に対応する語として「彼氏」という語も生まれた。これはタレントで作家の徳川夢声という人物による偶然の発明だったとも言われている。彼が執筆した『漫談集・見習諸勇列伝の巻』の中で、「彼女と彼の会話」と書くはずが、原稿の行数の都合で、「氏」を足して「彼氏」としたという逸話がある。

    これは、僕自身が国立国会図書館に資料を取り寄せており、該当部分の原文が確認でき次第、あらためてご紹介したい。

    近年では、SNSにはじまるインターネット媒体の普及も相まって、日本語はますます外来語や他言語からの影響を受けやすくなっている。今日も新しい言い回しや語彙が日々生まれ、変化し続けている。たとえば、「エモい」「マインドセット」「モチベーション」など。

    冒頭に戻るが、「それでは、良い週末を!」も含め、そのような言語の変遷に目を向けてみることは、「暇な週末」を少し知的な時間に変える一つの手段になるかもしれない。

    だからこそ?、今週末くらいは、翻訳くさい表現のままで言ってみたい。

    それでは、良い週末を!

    【参考文献】

    鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書、1973年。

    https://amzn.to/45cSmuw

    森鴎外『舞姫』青空文庫、1890年(原作年)。

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html

    小学館『精選版 日本国語大辞典』。

    【タグ】

    言語干渉, 日本語, 三人称代名詞, ことばの変遷, 明治時代, 森鴎外, 言語文化, 翻訳, 近代化, 日本語教育, 言語文化論, 英語教育, Sociolinguistics

  • #6 年を取るのが楽しみになる… 話情報処理能力のピークは10代まで、と言うけれど。

    長寿は「良いこと」だと言われる。しかし、「年齢を重ねる」というのは、どこか死に近づいていくような響きがある。それだけでなく、あらゆる能力が衰えていくような印象がつきまとう。僕のような20代でさえ、そんなことを考えると少し憂鬱になる。

    人間の能力といえば、たとえばプロゲーマーの話がある。プロゲーマーを目指す若者にとって重要なのは、動作性知能、あるいはワーキングメモリと呼ばれる能力である。これらのピークはおおよそ10代後半から20代前半にかけて訪れ、それ以降は徐々に低下していくとされる。つまり、プロゲーマーとは、基本的に“若者だけがなれる職業”なのだ。

    もちろん、僕自身にも将来の夢があり、これからの人生はまだまだ長いと信じているので、希望を抱いて生きている。
    とはいえ、老後はどうだろう。たとえ定年が引き上げられたとしても、その先に待っているのは「能力の低下」ばかりなのだろうか。多くの研究によれば、中高年以降は、ほとんどすべての能力が徐々にピークを過ぎていくという。そう聞かされると、誰でも絶望感を覚えてしまうだろう。

    だが、ある研究は、その憂鬱を和らげてくれるかもしれない。

    認知心理学者・伊集院睦雄らの研究によれば、若者に比べて高齢者の方が「語彙能力」において優れていることがわかった。つまり、年齢とともに高まる能力も、確かに存在していたのだ。

    伊集院らは、加齢に伴って語彙数(具体的には和語・漢語・外来語)がどのように変化するかを調査した。その結果、和語や漢語に関しては、高齢者の方が若者よりもおよそ20%以上多く知っていることが明らかになった。

    ここで注意しておかなければならないのが、外来語である。外来語に関しては特段の年齢差が見られなかった。これはおそらく、昔の外来語(例えば、ランデブーやアベックのような昭和のカタカナ語)は若者には馴染みがなく、逆に新しく入ってきた外来語(例えば、エビデンスやアポイント)は高齢者にとって意味がとりにくい、という両方向のズレが相殺し合っているためだと考えられる。

    もちろん、長く生きていれば語彙が多くなるのは当然とも言える。しかし、それが数値としてデータに裏付けられているという事実には、やはりどこか安心させられる。
    特に、僕のように、日常的に文章を書く者(まだブログ歴1週間だが)にとっては、「年を取ればもっと良い文章が書けるかもしれない」と思えるのは、何とも心強い。加齢に対する漠然とした怖さが、少し薄らいだように感じる。いやむしろ、年齢を重ねることが、より良い文章を書くための土台になるのだと考えれば、楽しみにさえ思えてくる。

    ついでにもう一つ、加齢のメリットを紹介したい。それは、「都合の悪いことが聞こえにくくなる」ということだ。
    若者にとっては悩みの種かもしれないが、本人にとっては、ある意味でポジティブな効果をもたらすこともある。

    僕も覚えがある。

    例えば、

    ある場面ではこんな一面が、
    僕「ねぇ。おばあちゃん、お小遣いちょうだい!」
    祖母「え?なんだってー?耳が遠いのよ。」

    またある場面ではこんな一面が、

    僕「やったー!臨時収入だー!」
    祖母「あら、臨時収入!今日は焼肉ね。」

    誰しも、似たようなやりとりを経験したことがあるのではないだろうか。一見「とぼけているだけ」に思えるかもしれないが、実際はそうではないようだ。

    実際には、加齢によって音の聞こえ方そのものが変化する。研究によれば、「親密度」や「頻度」、「心像性(イメージの鮮明さ)」といった意味属性が、音声の聞き取りやすさに影響を与えるという。つまり、「意味のある言葉(関心のある言葉)」ほど耳に届きやすく、逆に「どうでもいい言葉(関心の薄い言葉)」は、自然と聞き流されてしまうのだ。

    このことから、「都合の悪いことは聞こえない」というのは、単なる冗談ではなく、ある程度の科学的根拠がある現象だと言える。

    年齢とともに、ストレスを生む言葉が聞こえにくくなり、嬉しい言葉だけが耳に届き、日々が前向きになる。そんなふうに考えると、年を取ることも、少し楽しみに思えてくる。

    【参考文献】
    辰巳格「言語能力の加齢変化と脳」『人工知能学会誌』第21巻第4号、2006年、pp. 490–498。
    Hartshorne, J. K., Tenenbaum, J. B., & Pinker, S. (2015). When does cognitive functioning peak? The asynchronous rise and fall of different cognitive abilities across the life span. Psychological Science, 26(4)

    【タグ】
    認知心理学, 認知神経科学, 発達心理学, 脳科学, 言語学, 心理言語学, 生涯発達理論, cognitive psychology, cognitive neuroscience, developmental psychology, brain science, linguistics, psycholinguistics, lifespan development

  • #5 三足の草鞋

    昨日、三足の草鞋を履きたいという話をした。すなわち、弁護士・心理士・学者として、それぞれの専門性を持ちつつ社会に貢献するという道である。しかし、そのための現時点での具体的なステップについては、まだ話していなかった。

    まず、弁護士としての道について。現在、司法試験を受けるための試験である予備試験に向けて、予備校を活用しながら日々学習を続けている。ただし、今年の合格は、正直なところ非常に厳しいと感じている。悔しさはあるが、現実として受け止める必要がある。そのため、今年は行政書士試験に確実に合格することを一つの通過点としたい。ただし、あくまでこれは司法試験合格のためのステップである。理想は、「司法試験の勉強をしていた延長線上に、結果として行政書士に合格していた」という形だ。主軸はあくまで司法試験であり、行政書士試験はその補助的な意味を持つに過ぎない。

    次に、心理士としての準備について。こちらも中長期的な視点が必要である。まずは心理学の知識を広く網羅的に習得することが不可欠であり、その初動として、2026年より心理学検定1級の取得を目指す予定だ。司法試験の学習の合間、あるいは息抜きとして、1日30分〜60分の学習時間を確保し、夏の検定試験(予備試験終了直後)に臨むつもりである。具体的な学習内容や計画は、2026年になってから「ことばノート」にて随時記録・共有していく。

    言語学者としては、まずは前提として、学部の卒業論文を通じて専門的な知識の獲得と整理を進めていくことになる。2025年および2026年の2年間で、学問的な知見を深めながら、そこから得られた理論や発見を、この「ことばノート」を通じて言語化していきたい。

    兎にも角にも、現時点において最も高い壁であるのは、やはり司法試験予備試験の合格である。三足の草鞋を成立させるためにも、まずはこの最初の一足(司法の草鞋)を確実に履きこなすことが、何よりも重要だ。

    最後に、「ことばノート」の意義について述べ、締め括ろう。

    第一に、これは僕にとって「検索可能なノート」であるという点が大きい。自分が関心を持つすべての領域(言語学、心理学、法学以外にも教育学など)を一か所に集約できる場所として設計している。ここにある検索機能は、僕の記憶の補助装置としても機能し、必要な情報をすぐに呼び出せるという意味で、実用的だ。そして何より、これはほとんど僕自身のために記録しているものなので、内容や表現に過度な制約を設ける必要もない。雑多であって構わないのだ。

    第二に、「見られている」という感覚も、ある種の動機付けとして作用している。昨日は、Robert Cialdiniの Influence: Science and Practice や、Peter Gollwitzerの「目標の自動化」理論を紹介したが、まさにああいった理論が僕自身にも働いていると感じる。目標を言語化し、他者の目に触れる形で共有することで、自己規律が強化されていく感覚がある。

    前回も引用したため、Influence: Science and Practice の人を動かす6つのアプローチを、改めて全て先に紹介しておこう。これは、アメリカの社会心理学者・Robert Cialdiniが提唱したもので、人間が他者のどんな影響を受け、行動しているのかを示している。

    ① Reciprocity(返報性):人は何かを受け取ると、それに対し、何かを返さなければならないという心理的な義務感を抱く傾向がある。

    ② Commitment and Consistency(一貫性):一度表明した意見や行動と整合するように、その後の行動を選択する傾向がある。

    ③ Social Proof(社会的証明):多数の人々が行っていることを「正しい」と認識し、それに従おうとする傾向がある。

    ④ Liking(好意):好意(好感)を持つ人からの提案や依頼には、他と比べより従いやすくなる傾向がある。

    ⑤ Authority(権威):専門家や高い地位にある人の言動に人は、流されやすいという傾向がある。

    ⑥ Scarcity(希少性):数や時間に限りのあるものには、より高い価値を見出し、行動が促されやすくなるという傾向がある。

    話を戻して、第三に、この「ことばノート」は、ある種の硬めのプロフィールとしても機能しうる。大学院のこれからの指導教員や教授陣に対して、自分がどのような関心を持ち、どのような知的スタンスを取っているかを伝える資料として活用できるし、また、知的関心を共有する新しい友人との対話の入口にもなる。これはCialdiniの言うところの「返報性の原理(reciprocity)」にも通じる側面があるだろう。自分の内面を開示することは、相手の内面を引き出す誘因にもなる。

    第四に、僭越ながら、このノートにはある程度の社会的意義もあるのではないかと考えている。僕は、「法」「こころ」「ことば」という三領域をまたぐ姿勢をとっているが、これらを横断しながら知識を整理・統合する営み自体が、「専門性の分断」に対する一つの応答(アンチテーゼ)となりうる。言い換えれば、「ことばノート」は、ある特定の学問領域の断片(点と点を)を橋渡しする(線にする)ための私的実験であり、他の誰かにとっても、専門領域の垣根を越える学びのロールモデルになれればと願っている。また、ここに書かれる内容の一部は、比較的難解な学術書や論文を、僕なりの視点と言葉で咀嚼し直したものである。そうした再構成は、ひとつの教育的試みとも言えるかもしれない。英語についての記述も含め、ことばを通して知の広がりと深化を促す場にしたい。そして、僕自身の内面と、社会的な営みがどのように「ことば」を通じて結ばれていくか、その軌跡を残していく。もしそれが、どこかの誰かの思索のきっかけや、学びのモチベーションになれば、それはこの上ない喜びである。

    【参考文献】

    Cialdini, R. B. (2001). Influence: Science and Practice (4th ed.). Allyn & Bacon.

    【タグ】

    社会心理学, 説得理論, 動機づけ, 行動経済学, コミュニケーション理論, 目標達成, 認知心理学, 人間行動, 心理学

  • #4 言霊のなぜ

    将来の夢を語らうのは、どこか気恥ずかしいものだ。たとえ心の中で本気で信じていたとしても、それが叶わなかったときのことを想像してしまう。それに、おとぎ話の世界では「夢を口にすると叶わない」とも言う。

    一方で、日本には古くから「言霊(ことだま)」という考え方もある。言葉には力が宿り、それを声に出すことで、その力が現実に作用するというのだ。

    いささか信じがたいとも感じる「言霊」だが、実はこの考え方は、現代の脳科学や心理学の視点からも、意外なことに支持されている。

    「夢を語ること」、すなわち目標や自分の意志を言葉にして外に出す(=アウトプット)ことが、心理的にも行動的にも重要だというのだ。

    以下に、いくつかの研究を紹介しよう。

    まずは、アメリカの社会心理学者・Robert Cialdiniの著書 Influence: Science and Practice を見てみよう。この本では、人を動かす6つのアプローチが紹介されている。その中のひとつが”Commitment and consistency”である。

    これは、「人は一度言葉にして意思表示をすると、その発言や立場に一貫性を保とうとする」という心理的傾向を指している。たとえば、夢を「語る」ことで、自分の中にその目標への責任感が生まれ、行動もそれに沿って変わっていく。

    次に紹介したいのが、ドイツの心理学者・Peter Gollwitzerが提唱する「目標の自動化」という考え方だ。彼によれば、人は目標をできるだけ明確にし、状況と結びつけておくだけで、脳が自動的にその目標達成に向けて動き出すという。

    こうした効果に「〇〇効果」という名前をつけたくなるのが脳科学や心理学の性(さが)ではあるが常ではないことを言及しておく。とはいえ、ここでは深入りしないでおこう。今後のブログでは、信頼に足る研究者が書いた本を取り上げ、自分なりの視点で解釈しながら紹介していく予定だ。

    さて、ここまでを踏まえて、僕なりの言葉でまとめてみたい。

    「夢を語れるまでに言語化し、それを自動化できる仕組みに落とし込み、あとは努力を続ける。」

    これこそ、「言霊」の科学的な側面だと言っても、あながち間違いではないのではないだろうか。

    それでは、言霊を信じて、僕の現在の目標と、そのためのステップを掲げよう。さらに習慣レベルまで落とし込むのは、さすがに細かすぎるので、大まかな部分だけにしておく。

    まず、大きな目標として、あるいは大義名分として掲げたいのは、「ことばとこころを中心に、法で人を守る」ということだ。

    これをもう少し具体的に言うと、(心理・認知)言語学で博士号を取得し、公認心理師(あるいは臨床心理士)の資格を取り、弁護士としても活動できるようになること。この三つの柱をすべて立てたい。

    弁護士事務所で1年ほど働いたことがあるのでわかるのだが、クライアントは、法律的な問題だけでなく、常に心の問題も抱えている。弁護士は法のプロであっても、心のプロではない。そのため、どうしても心の傷にまで手を差し伸べることは難しい。

    その両方を同時に支えられる「弁護士 × カウンセラー(便宜的にこう呼ぶ)」が、今の社会には必要だと強く思う。そして、そうした実践的な立場だけでなく、研究者としての視点も不可欠だろう。現場で感じたことを研究対象として掘り下げ、学術的なかたちで世の中に還元する。それは、他の誰かの参考になるのと同時に、自分自身が迷わず進むための軸にもなるはずだ。

    とりわけ僕は、言語に強い関心がある。だからこそ、人が発する言葉そのものを入口にして、心にアプローチする方法を探っていきたい。さらに言えば、今後、外国籍の方が日本社会に増えていくことを考えると、国際結婚などから生まれる法律、言語や心理のトラブルも重要なテーマになってくる。そういった領域を、自分の専門として扱っていきたい。

    この三つの役割(弁護士・心理士・学者)は、どれが欠けても僕にとっては不完全だと感じる。弁護士だけでは、心を癒すことはできない。心理士だけでは、現実の法的トラブルに立ち向かえない。学者だけでは、どうしても人と直接関わる経験が限られてしまうこともある。

    そして、この目標をどうやって日常に落とし込むか。

    弁護士の目標は単純明快。司法試験に合格することだ。現在は予備校に通い、そのために多くの時間を勉強に充てている。

    心理士についても、資格取得はひとつの目標にはなるが、それだけではなく、今のうちから人の心に関心を向け、もっと対話を大事にしたいと思っている。そのために何ができるかは、別に考えていることがいくつかあるため、それはまた別の機会にまとめたい。

    学者としては、幅広く知識を蓄えながら、それを社会に発信する力を育てたい。今こうして書いている「ことばノート」も、そのためのひとつの試みである。

    ちなみに、僕が今描いている具体的なロードマップはこうだ。

    20xx年に予備試験合格。202xx年には大学を卒業し、大阪大学の博士前期課程に進学すると同時に司法試験も突破する予定。

    20xx年は修士1年を修了し、もしかしたら司法修習のために一度休学することになるかもしれない。

    その後、20xx年から20xx年にかけて修士課程を修了し、心理士の資格も取得したい。

    そして20xx年からは大阪大学の博士後期課程に進みながら、弁護士としても活動を開始するつもりだ。

    うまくいけば、2035年には、「学者」「弁護士」「心理士」の三足の草鞋(わらじ)を履いて、ことばとこころを中心に、法で人を守る人間になっている、、、そんな未来を見ている。

    【参考文献】

    Cialdini, R. B. (2001). Influence: Science and Practice (4th ed.). Allyn & Bacon.

    Gollwitzer, P. M., & Bargh, J. A. (2005). Automaticity in goal pursuit. In A. Elliot & C. Dweck (Eds.), Handbook of competence and motivation (pp. 624–646). New York: Guilford Press.

    【タグ】

    認知心理学, 社会心理学, 言語心理学, 自己制御, 目標設定, 言霊

  • #3 自己紹介(I?我?je?僕?私?)

    #0を皮切りにはじまった、ことばノートだが、未だ自己紹介もしていなかった。

    はじめまして。僕は、言語学徒くめかわいっきです。

    さて、早速…

    この文章から、まずは分析してみよう。

    今回扱うのは、「人称」である。

    僕は、好んで「僕」を使っている。しかし、男性の中には「俺」という人が多いのではないだろうか。僕には、ひらがなで、自分のことを「おれ」と書くいう珍しい友人もいる。

    女性の場合、「私」「わたし」「うち」(関西)なんかと、これまた違ったバリエーションがある。

    これほどまでに「(一)人称」が豊富な言語も非常に珍しい。単に馴染みのある言語を挙げてみても明らかだ。

    〈各言語の一人称〉

    英語:I

    フランス語:je

    中国語:我(※特殊な場面で使う表現もあるが、基本的にはこれに限られる)

    多くの言語では、一人称はほぼ1種類に限定されている。

    夏目漱石の『我輩は猫である』の英題は “I Am a Cat”だそうで、我々の感じるニュアンスは英語では伝わらないだろう。

    翻訳の現場でも、日本語に翻訳するときは特に、「どの一人称にするのか」は難しいようだ。

    『ハリー・ポッターと死の秘宝』で、セブルス・スネイプが死の間際に言うセリフがある。

    Look at me.

    僕を見て。

    スネイプの言ったこのセリフを翻訳したのが、翻訳家・松岡佑子であった。彼女の日本語訳には、賛否が未だに巻き起こっている。

    普段は「我輩」や「私」など一人称を使うスネイプが、このシーンで「僕」と言うのは、なにか意図を感じる。言わずもがな、英語には me しかないわけだが、日本語で訳す以上、どう訳すかでキャラクター・場面・物語の解釈も変わってきてしまう。

    さて、こうした日本語における「一人称」の発達には、社会的・歴史的・文化的な背景が複雑に絡んでいるに違いない。ここでは、特に現在の日本語の「一人称」がどのように形成されてきたか、その流れを追うこととする。

    まず、日本語の「一人称」を考察する前に、他言語、とりわけヨーロッパ諸語との違いを確認しておがなければならない。

    そもそも日本語と他の言語(特にヨーロッパ諸語)とでは、一人称の捉え方が全く異なる。

    例えば、英語のIやフランス語のjeは、いずれもインド=ヨーロッパ祖語に由来する語であり、数千年前には共通の語源を持っていた。そして、重要なのは、これらがいずれも「人称代名詞」であるという点である。

    それに対して、そもそも、日本語における「僕」「俺」「私(わたし・わたくし)」「うち」などは、人称“代名詞”と言って良いのだろうか。

    辞書(『精選版 日本国語大辞典』)を引いてみると、「人称代名詞」とは「代名詞の一つで、人物について指し示す語」と定義されている。また、代名詞そのものについては「ある場面や文脈の中で、人や事物などを固有名詞を用いずに個別に指し示す語」とされている。

    この定義に照らせば、確かに日本語の「僕」や「私」も人称代名詞であると言えなくはない。

    しかし、それでもなお、ヨーロッパ諸語における人称代名詞のような固定された意識とは、ピッタリと合うというわけではなさそうだ。実際、日本語話者にとっては、Iやjeのような「厳密に規定された一人称」の感覚は薄い。

    歴史的背景を見てみよう。先ほども述べたように、ヨーロッパ語においては、人称代名詞の体系が古くから確立していた。一方、日本語においては、そのような体系が近代以前には明確に存在していたわけではない。

    明治時代に日本の文法がヨーロッパ語の枠組みを参考に整備されたとき、それまで存在していた一人称表現が「人称代名詞」として整理されたにすぎない。

    言い換えれば、日本語における「人称代名詞」は、近代に入ってからの構築的な概念であるのだ。加えて、その語源をたどると、実質的な意味をもった語(実質詞)、すなわち本来は何らかの意味内容を備えた語であったことがわかる。

    例えば、僕が使う「僕」について言えば、本来「あなたの僕(しもべ)」という意味を持ち、江戸時代の文書などでは自分を卑下する表現として用いられていた。明治以降には、口語に転用され、目上の人に対して用いる一人称として定着した。さらに、現代、また違う使い方がされているのは、ご覧の通りである。

    このような変化は「一人称語」の語史におけるよくあるパターンである。新たに一人称として用いられる語は、最初は自らを低く表現するために用いられるが、次第にその語が慣用化するにつれて、中立的な語感となり、やがては逆に相手を見下すような語感すら帯びるようになってしまう。この現象については、言語学者・佐久間鼎が初めて体系的に論じた。

    このような背景から、日本語における「一人称」は、固定的な代名詞というよりは、話者の立場や状況、時代によって流動的に変化していく語であった(ある)と言える。そして、それこそが、日本語において一人称表現の多様性が育まれてきた一因なのだろう。

    最後になってしまいましたが、簡単にプロフィールを載せておきます。

    名前:くめかわいっき

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    鈴木孝夫『言葉と文化』岩波新書、1973年。

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    pragmatics, semantics, 一人称代名詞, 人類言語学, 日本語, 歴史言語学, 社会言語学