#3 自己紹介(I?我?je?僕?私?)

#0を皮切りにはじまった、ことばノートだが、未だ自己紹介もしていなかった。

はじめまして。僕は、言語学徒くめかわいっきです。

さて、早速…

この文章から、まずは分析してみよう。

今回扱うのは、「人称」である。

僕は、好んで「僕」を使っている。しかし、男性の中には「俺」という人が多いのではないだろうか。僕には、ひらがなで、自分のことを「おれ」と書くいう珍しい友人もいる。

女性の場合、「私」「わたし」「うち」(関西)なんかと、これまた違ったバリエーションがある。

これほどまでに「(一)人称」が豊富な言語も非常に珍しい。単に馴染みのある言語を挙げてみても明らかだ。

〈各言語の一人称〉

英語:I

フランス語:je

中国語:我(※特殊な場面で使う表現もあるが、基本的にはこれに限られる)

多くの言語では、一人称はほぼ1種類に限定されている。

夏目漱石の『我輩は猫である』の英題は “I Am a Cat”だそうで、我々の感じるニュアンスは英語では伝わらないだろう。

翻訳の現場でも、日本語に翻訳するときは特に、「どの一人称にするのか」は難しいようだ。

『ハリー・ポッターと死の秘宝』で、セブルス・スネイプが死の間際に言うセリフがある。

Look at me.

僕を見て。

スネイプの言ったこのセリフを翻訳したのが、翻訳家・松岡佑子であった。彼女の日本語訳には、賛否が未だに巻き起こっている。

普段は「我輩」や「私」など一人称を使うスネイプが、このシーンで「僕」と言うのは、なにか意図を感じる。言わずもがな、英語には me しかないわけだが、日本語で訳す以上、どう訳すかでキャラクター・場面・物語の解釈も変わってきてしまう。

さて、こうした日本語における「一人称」の発達には、社会的・歴史的・文化的な背景が複雑に絡んでいるに違いない。ここでは、特に現在の日本語の「一人称」がどのように形成されてきたか、その流れを追うこととする。

まず、日本語の「一人称」を考察する前に、他言語、とりわけヨーロッパ諸語との違いを確認しておがなければならない。

そもそも日本語と他の言語(特にヨーロッパ諸語)とでは、一人称の捉え方が全く異なる。

例えば、英語のIやフランス語のjeは、いずれもインド=ヨーロッパ祖語に由来する語であり、数千年前には共通の語源を持っていた。そして、重要なのは、これらがいずれも「人称代名詞」であるという点である。

それに対して、そもそも、日本語における「僕」「俺」「私(わたし・わたくし)」「うち」などは、人称“代名詞”と言って良いのだろうか。

辞書(『精選版 日本国語大辞典』)を引いてみると、「人称代名詞」とは「代名詞の一つで、人物について指し示す語」と定義されている。また、代名詞そのものについては「ある場面や文脈の中で、人や事物などを固有名詞を用いずに個別に指し示す語」とされている。

この定義に照らせば、確かに日本語の「僕」や「私」も人称代名詞であると言えなくはない。

しかし、それでもなお、ヨーロッパ諸語における人称代名詞のような固定された意識とは、ピッタリと合うというわけではなさそうだ。実際、日本語話者にとっては、Iやjeのような「厳密に規定された一人称」の感覚は薄い。

歴史的背景を見てみよう。先ほども述べたように、ヨーロッパ語においては、人称代名詞の体系が古くから確立していた。一方、日本語においては、そのような体系が近代以前には明確に存在していたわけではない。

明治時代に日本の文法がヨーロッパ語の枠組みを参考に整備されたとき、それまで存在していた一人称表現が「人称代名詞」として整理されたにすぎない。

言い換えれば、日本語における「人称代名詞」は、近代に入ってからの構築的な概念であるのだ。加えて、その語源をたどると、実質的な意味をもった語(実質詞)、すなわち本来は何らかの意味内容を備えた語であったことがわかる。

例えば、僕が使う「僕」について言えば、本来「あなたの僕(しもべ)」という意味を持ち、江戸時代の文書などでは自分を卑下する表現として用いられていた。明治以降には、口語に転用され、目上の人に対して用いる一人称として定着した。さらに、現代、また違う使い方がされているのは、ご覧の通りである。

このような変化は「一人称語」の語史におけるよくあるパターンである。新たに一人称として用いられる語は、最初は自らを低く表現するために用いられるが、次第にその語が慣用化するにつれて、中立的な語感となり、やがては逆に相手を見下すような語感すら帯びるようになってしまう。この現象については、言語学者・佐久間鼎が初めて体系的に論じた。

このような背景から、日本語における「一人称」は、固定的な代名詞というよりは、話者の立場や状況、時代によって流動的に変化していく語であった(ある)と言える。そして、それこそが、日本語において一人称表現の多様性が育まれてきた一因なのだろう。

最後になってしまいましたが、簡単にプロフィールを載せておきます。

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【参考文献】

鈴木孝夫『言葉と文化』岩波新書、1973年。

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pragmatics, semantics, 一人称代名詞, 人類言語学, 日本語, 歴史言語学, 社会言語学