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  • #8 All Roads Lead to Logos

    全ての道はローマに通ず。

    この有名なことわざは、12世紀のフランス神学者アラン・ド・リール(Alain de Lille)によるラテン語の格言に由来する。

    Mille viae ducunt homines per saecula Romam,

    Qui Dominum toto quaerere corde volunt.

    (千の道が時を超えて人々をローマへ導く。主を全身全霊で求める者たちにとって。)

    現代では「手段は違っていても同じ目的に達すること、真理は一つであること」といった意味で用いられる。我々が知るこのことわざは、日本語は英語の “All roads lead to Rome.” や、フランス語の “Tous les chemins mènent à Rome.” から輸入されたのであろう。

    この言葉を学問に敷衍するならば、こう言うことができる。

    「すべての学問は哲学に通ず」

    学問を深めていくと、次第に個別の問いが、より根本的な問いへと収束していく。そこに立ち現れるのが「哲学」である。

    そもそも「哲学」の語源である philosophia は、古代ギリシア語で「知を愛すること」を意味し、当時はあらゆる学問を包括する言葉として用いられていた。科学や芸術、なども哲学の一部であった。それぞれが細分化され、発展していったことで、現代の多様な学問分野が成立している。

    言語学もその例外ではない。音声、語彙、文法、意味といった言葉の形や使われ方をどんどん突き詰めていくと、必然的に「人はなぜことばを持つのか」「ことばは思考とどう関わるのか」といったような根源的な問い(哲学)に行き着くのだ。

    したがって、言語学とは、哲学へと通じる一つの道である。そしてその道は、まさに「全ての道はローマに通ず」の精神と重なるものだと言える。

    さて、実のところ、この記事を書く本来の目的は、岩波新書の『言語哲学がはじまる』(野矢茂樹)をまとめ、学習の記録として残しておくことにあった。

    ただ、その前に、どうしても哲学史の大まかな流れを一度整理しておきたくなり、今回はその準備として、こうして筆をとった。

    今後、高校生にもわかるような哲学史の入門書を手がかりにしながら、自分なりに咀嚼し、つたないながらも僕自身が考えたことや関連知識を少しずつ書き留めていければと思っている。

    【参考文献】

    野矢茂樹『言語哲学がはじまる』、岩波新書、2020年。

    Alain de Lille(アラン・ド・リール)によるラテン語の格言

    ※出典として明示されることが少ないため、原典確認は困難ですが、以下のような文献に言及が見られます。 Curtius, Ernst Robert. European Literature and the Latin Middle Ages. Princeton University Press, 1953.  引用格言: Mille viae ducunt homines per saecula Romam, Qui Dominum toto quaerere corde volunt.

    【タグ】

    哲学, 言語学, 言語哲学, 西洋思想史, 学問の起源, 知の系譜, 野矢茂樹, 哲学史入門

  • #6 年を取るのが楽しみになる… 話情報処理能力のピークは10代まで、と言うけれど。

    長寿は「良いこと」だと言われる。しかし、「年齢を重ねる」というのは、どこか死に近づいていくような響きがある。それだけでなく、あらゆる能力が衰えていくような印象がつきまとう。僕のような20代でさえ、そんなことを考えると少し憂鬱になる。

    人間の能力といえば、たとえばプロゲーマーの話がある。プロゲーマーを目指す若者にとって重要なのは、動作性知能、あるいはワーキングメモリと呼ばれる能力である。これらのピークはおおよそ10代後半から20代前半にかけて訪れ、それ以降は徐々に低下していくとされる。つまり、プロゲーマーとは、基本的に“若者だけがなれる職業”なのだ。

    もちろん、僕自身にも将来の夢があり、これからの人生はまだまだ長いと信じているので、希望を抱いて生きている。
    とはいえ、老後はどうだろう。たとえ定年が引き上げられたとしても、その先に待っているのは「能力の低下」ばかりなのだろうか。多くの研究によれば、中高年以降は、ほとんどすべての能力が徐々にピークを過ぎていくという。そう聞かされると、誰でも絶望感を覚えてしまうだろう。

    だが、ある研究は、その憂鬱を和らげてくれるかもしれない。

    認知心理学者・伊集院睦雄らの研究によれば、若者に比べて高齢者の方が「語彙能力」において優れていることがわかった。つまり、年齢とともに高まる能力も、確かに存在していたのだ。

    伊集院らは、加齢に伴って語彙数(具体的には和語・漢語・外来語)がどのように変化するかを調査した。その結果、和語や漢語に関しては、高齢者の方が若者よりもおよそ20%以上多く知っていることが明らかになった。

    ここで注意しておかなければならないのが、外来語である。外来語に関しては特段の年齢差が見られなかった。これはおそらく、昔の外来語(例えば、ランデブーやアベックのような昭和のカタカナ語)は若者には馴染みがなく、逆に新しく入ってきた外来語(例えば、エビデンスやアポイント)は高齢者にとって意味がとりにくい、という両方向のズレが相殺し合っているためだと考えられる。

    もちろん、長く生きていれば語彙が多くなるのは当然とも言える。しかし、それが数値としてデータに裏付けられているという事実には、やはりどこか安心させられる。
    特に、僕のように、日常的に文章を書く者(まだブログ歴1週間だが)にとっては、「年を取ればもっと良い文章が書けるかもしれない」と思えるのは、何とも心強い。加齢に対する漠然とした怖さが、少し薄らいだように感じる。いやむしろ、年齢を重ねることが、より良い文章を書くための土台になるのだと考えれば、楽しみにさえ思えてくる。

    ついでにもう一つ、加齢のメリットを紹介したい。それは、「都合の悪いことが聞こえにくくなる」ということだ。
    若者にとっては悩みの種かもしれないが、本人にとっては、ある意味でポジティブな効果をもたらすこともある。

    僕も覚えがある。

    例えば、
    僕「ねぇ。おばあちゃん、お小遣いちょうだい!」
    祖母「え?なんだってー?耳が遠いのよ。」

    僕「やったー!臨時収入だー!」
    祖母「あら、臨時収入!今日は焼肉ね。」

    誰しも、似たようなやりとりを経験したことがあるのではないだろうか。一見「とぼけているだけ」に思えるかもしれないが、実際はそうではないようだ。

    実際には、加齢によって音の聞こえ方そのものが変化する。研究によれば、「親密度」や「頻度」、「心像性(イメージの鮮明さ)」といった意味属性が、音声の聞き取りやすさに影響を与えるという。つまり、「意味のある言葉(関心のある言葉)」ほど耳に届きやすく、逆に「どうでもいい言葉(関心の薄い言葉)」は、自然と聞き流されてしまうのだ。

    このことから、「都合の悪いことは聞こえない」というのは、単なる冗談ではなく、ある程度の科学的根拠がある現象だと言える。

    年齢とともに、ストレスを生む言葉が聞こえにくくなり、嬉しい言葉だけが耳に届き、日々が前向きになる。そんなふうに考えると、年を取ることも、少し楽しみに思えてくる。

    【参考文献】
    辰巳格「言語能力の加齢変化と脳」『人工知能学会誌』第21巻第4号、2006年、pp. 490–498。
    Hartshorne, J. K., Tenenbaum, J. B., & Pinker, S. (2015). When does cognitive functioning peak? The asynchronous rise and fall of different cognitive abilities across the life span. Psychological Science, 26(4)

    【タグ】
    認知心理学, 認知神経科学, 発達心理学, 脳科学, 言語学, 心理言語学, 生涯発達理論, cognitive psychology, cognitive neuroscience, developmental psychology, brain science, linguistics, psycholinguistics, lifespan development

  • #3 自己紹介(I?我?je?僕?私?)

    #0を皮切りにはじまった、ことばノートだが、未だ自己紹介もしていなかった。

    はじめまして。僕は、言語学徒くめかわいっきです。

    さて、早速…

    この文章から、まずは分析してみよう。

    今回扱うのは、「人称」である。

    僕は、好んで「僕」を使っている。しかし、男性の中には「俺」という人が多いのではないだろうか。僕には、ひらがなで、自分のことを「おれ」と書くいう珍しい友人もいる。

    女性の場合、「私」「わたし」「うち」(関西)なんかと、これまた違ったバリエーションがある。

    これほどまでに「(一)人称」が豊富な言語も非常に珍しい。単に馴染みのある言語を挙げてみても明らかだ。

    〈各言語の一人称〉

    英語:I

    フランス語:je

    中国語:我(※特殊な場面で使う表現もあるが、基本的にはこれに限られる)

    多くの言語では、一人称はほぼ1種類に限定されている。

    夏目漱石の『我輩は猫である』の英題は “I Am a Cat”だそうで、我々の感じるニュアンスは英語では伝わらないだろう。

    翻訳の現場でも、日本語に翻訳するときは特に、「どの一人称にするのか」は難しいようだ。

    『ハリー・ポッターと死の秘宝』で、セブルス・スネイプが死の間際に言うセリフがある。

    Look at me.

    僕を見て。

    スネイプの言ったこのセリフを翻訳したのが、翻訳家・松岡佑子であった。彼女の日本語訳には、賛否が未だに巻き起こっている。

    普段は「我輩」や「私」など一人称を使うスネイプが、このシーンで「僕」と言うのは、なにか意図を感じる。言わずもがな、英語には me しかないわけだが、日本語で訳す以上、どう訳すかでキャラクター・場面・物語の解釈も変わってきてしまう。

    さて、こうした日本語における「一人称」の発達には、社会的・歴史的・文化的な背景が複雑に絡んでいるに違いない。ここでは、特に現在の日本語の「一人称」がどのように形成されてきたか、その流れを追うこととする。

    まず、日本語の「一人称」を考察する前に、他言語、とりわけヨーロッパ諸語との違いを確認しておがなければならない。

    そもそも日本語と他の言語(特にヨーロッパ諸語)とでは、一人称の捉え方が全く異なる。

    例えば、英語のIやフランス語のjeは、いずれもインド=ヨーロッパ祖語に由来する語であり、数千年前には共通の語源を持っていた。そして、重要なのは、これらがいずれも「人称代名詞」であるという点である。

    それに対して、そもそも、日本語における「僕」「俺」「私(わたし・わたくし)」「うち」などは、人称“代名詞”と言って良いのだろうか。

    辞書(『精選版 日本国語大辞典』)を引いてみると、「人称代名詞」とは「代名詞の一つで、人物について指し示す語」と定義されている。また、代名詞そのものについては「ある場面や文脈の中で、人や事物などを固有名詞を用いずに個別に指し示す語」とされている。

    この定義に照らせば、確かに日本語の「僕」や「私」も人称代名詞であると言えなくはない。

    しかし、それでもなお、ヨーロッパ諸語における人称代名詞のような固定された意識とは、ピッタリと合うというわけではなさそうだ。実際、日本語話者にとっては、Iやjeのような「厳密に規定された一人称」の感覚は薄い。

    歴史的背景を見てみよう。先ほども述べたように、ヨーロッパ語においては、人称代名詞の体系が古くから確立していた。一方、日本語においては、そのような体系が近代以前には明確に存在していたわけではない。

    明治時代に日本の文法がヨーロッパ語の枠組みを参考に整備されたとき、それまで存在していた一人称表現が「人称代名詞」として整理されたにすぎない。

    言い換えれば、日本語における「人称代名詞」は、近代に入ってからの構築的な概念であるのだ。加えて、その語源をたどると、実質的な意味をもった語(実質詞)、すなわち本来は何らかの意味内容を備えた語であったことがわかる。

    例えば、僕が使う「僕」について言えば、本来「あなたの僕(しもべ)」という意味を持ち、江戸時代の文書などでは自分を卑下する表現として用いられていた。明治以降には、口語に転用され、目上の人に対して用いる一人称として定着した。さらに、現代、また違う使い方がされているのは、ご覧の通りである。

    このような変化は「一人称語」の語史におけるよくあるパターンである。新たに一人称として用いられる語は、最初は自らを低く表現するために用いられるが、次第にその語が慣用化するにつれて、中立的な語感となり、やがては逆に相手を見下すような語感すら帯びるようになってしまう。この現象については、言語学者・佐久間鼎が初めて体系的に論じた。

    このような背景から、日本語における「一人称」は、固定的な代名詞というよりは、話者の立場や状況、時代によって流動的に変化していく語であった(ある)と言える。そして、それこそが、日本語において一人称表現の多様性が育まれてきた一因なのだろう。

    最後になってしまいましたが、簡単にプロフィールを載せておきます。

    名前:くめかわいっき

    趣味:旅行、読書、そしてこのblog

    その他:YouTube(ことばノート)も運営中!

    【参考文献】

    鈴木孝夫『言葉と文化』岩波新書、1973年。

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    【タグ】

    pragmatics, semantics, 一人称代名詞, 人類言語学, 日本語, 歴史言語学, 社会言語学

  • #2 参考文献について

    さまざまなブログや記事を読んでいると、「この情報の出典はどこなのだろう?」と思うことが少なくない。中には、そもそもどこから情報を得ているのかがまったく明示されていないものも見かける。

    もちろん、法的な問題として出典を明らかにすべきという側面もあるが、それ以上に、情報というのは人を介すことで、いつの間にか歪んでしまうものであるように感じている。蛇に足を描くようなことをしてしまったり、逆に実は必要であった頭を描き損じてしまったり。

    そもそも、最初にそれを研究し、言葉にした人の意図を完全に再現することは、ほとんど不可能に近いだろう。だからこそ、たとえ孫引きであっても、その筆者がどこからその「ネタ」を得たのかを知ることが、”僕にとっては”とても大切なのだ。

    そんな考えを僕は持っているので、この「ことばノート」でも、できるかぎり出典を明示していく方針で書いていきたいと思う。加えて、これは僕自身の勉強ノートでもあるので、後から自分が原典にたどり着けるようにという目的もある。

    とはいえ、僕が普段から論文を読んでいるわけではないため、今の段階では論文レベルの情報にまで踏み込むのは難しく、主に一般書や教科書を読みながら考えることが中心になっている。今後、より専門的に掘り下げられるようになった時には、論文ベースの記事にも挑戦したいと思っている。

    興味を持ってくださった方は、まずは紹介されている一般書を手に取ってみてほしい。僕自身、読みながらさまざまな気づきや疑問が浮かんでくることが多い。そうしたプロセスを共有しながら一緒に考えていけたら嬉しい。

    今後の記事の末尾には、本記事参考文献欄と同様の形で、参考文献や読書メモを掲載するつもりなので、参考にしてほしい。

    参考文献

    (日本語表記)

    慶應義塾大学日吉キャンパス学習相談員『学生による学生のためのダメレポート脱出法』、慶應義塾大学出版会、2021年。

    (英語表記:英語で書かれた文献については下記のように記載します)

    Keio University Learning Advisors. (2021). Gakusei ni yoru gakusei no tame no dame repōto dasshutsu-hō [How to escape from bad reports: For students, by students]. Keio University Press.

    https://amzn.to/4mIDxpM

    Amazonのアソシエイトとして、「ことばノート」は適格販売により収入を得ています。

  • #1 ことばノートに出す宿題

    ここにいる皆さんは、「hellog〜英語史ブログ」をご存じだろうか。慶應義塾大学の堀田隆一先生が、毎日欠かさず英語史について綴っておられるブログだ。

    英語に興味がある人なら、一度は目にしたことがあるかもしれない。

    中でも特に注目したいのが、「素朴な疑問」のコーナーだ。

    英語を学んでいると、ふと「これ、どうしてこうなるんだろう?」と疑問に思うことがある。その「ふとした疑問」に対して、英語史の観点から丁寧に答えてくれるのが、このコーナー。学習者にとっては、なんとも贅沢でありがたい内容である。

    そのアイデアを少し拝借して、このブログでも、ふとした「ことばに対する疑問(英語・日本語)」を募集しようと思う(ページメニューから「宿題」を選択して投稿できます)。

    英語でも日本語でも、学んでいると、「あれ、なんでこうなってるんだろう?」という瞬間はきっとあるはず。

    ただし、僕が主に取り上げるのは、堀田先生のような英語史の視点ではなく、僕自身が関心を寄せている「認知言語学」を中心としたアプローチだ。

    そこに、様々な別の視点も交えながら、できる限りいろんな角度からお答えしてみたい。

    とはいえ、このブログの目的はあくまで僕自身の学習記録。堀田先生のように、明快で網羅的な答えを出すことは僕にはできない。

    正確性を担保した「正解」を示すことが目的ではなく、「こんなふうにも考えられるんじゃないか」という思索のプロセスそのものを大切にしていきたい。

    なので、堀田先生のように「素朴な疑問」と名乗るのはおこがましいし、違った名前にしようと思う。

    このブログでは、それを「宿題」と呼ぶことにする。

    みなさんから寄せられた疑問(僕に対する宿題)を、僕なりに考え、整理する。

    その結果が、何かのヒントになったり、あるいはご自身で深く調べるきっかけになれば、とても嬉しい。

    次回は、実際に僕の生徒さんから寄せられた鋭い疑問を取り上げてみる。

    「“It seems that S V …” は、仮主語構文に見えるけれど、that節を it の代わりに置いてみるとどうも不自然。これはどう考えればいいのか?」

    かなり難しく、そして奥の深い問いだ。でも、僕なりに手を動かし、頭をひねって、調べられる範囲でできる限り丁寧に考えてみたい。